神様の手駒として

 主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。(ルカによる福音書4章18節)
                   
 クリスマスの光を仰ぎつつ、私たちはまた新しい1年を迎える門出に立っています。イエス・キリストがお生まれになった2000年前、この世界は大きな力によって捕らわれていました。「皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た」そのような時代でありました。一人の人間に巨大な権力が集中し、その言葉一つで多くの人々が駒のように動かされる、イエス様の母マリアもマリアの夫ヨセフもそのような駒とされた人々であります。そのような大きな力の支配の中に、馬小屋の飼い葉桶を寝床とする最も貧しい姿で神の御子イエス様はこの世に遣わされたのでした。

 「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を」告げるためであった、と福音書は記しています。大きな力の前で大勢の人たちが駒の一つとして動かされる、そのような力の支配からの解放のためにイエス様はこの世界に来てくださったということなのです。しかし、未だこの世界は大きな力の前で、私たち人間は小さな無力な駒一つに過ぎないというような現実に変わりないのではないでしょうか? 年末に、フランスでは百数十名もの犠牲者の出ると言った多発テロ事件が起きました。シリアでは内戦のため多くの難民の方々がヨーロッパ各地に逃れ、過酷な状況に置かれている中、また難民を受け入れることを躊躇せざるを得ない、そのような恐れを各国に広めるような出来事でありました。

 「目の見えない人に視力の回復を告げ」る、ということも福音書に記された言葉であります。今、私たちの世界は「憎しみ」や「恐れ」によって、人と人との間に相手を1個の人間としてまともに見ることの出来ない、むしろ排除や差別の標的にしか映らないという現実があります。そのような現実に真実の「視力」、人と人とがまともに向き合い、1個の人間として尊重し合える、その愛の眼差しを取り戻させるために神の御子はこの世界に降ってきて下さったのです。

 私たちは確かにこの世の大きな力の前で、暴力や恐れの拡散する世界の中で、翻弄される小さな1個の駒に過ぎないことを認めざるを得ないでしょう。しかし、神の御子が「飼い葉桶に寝かされる」幼子として、その駒の一つとなってきてくださった、このクリスマスの出来事は、決してこの世界の巨大な力に翻弄される駒としてイエス様が生まれたことを意味するものではありません。むしろ「飼い葉桶」という私たちの世界では最も小さな貧しさの象徴である所から、本当に私たちを解放し、私たちが互いに1個の人間として見つめ合える視力を回復する光が、この世に差し込まれたのだと言うことなのです。

 その御子イエスの光に照らされた時こそ、私たちはこの世の大きな力に翻弄される駒ではなく、主イエスの愛によって動くことの出来る、神様の御手によって用いられる神の手駒とされていくのです。新たな1年も、その神様の愛の支配に留まり、この世のあらゆる圧迫をも主の御手にある駒として乗り越えていきましょう。
(2015年12月27日週報より)