クリスマスの光

 言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネによる福音書1章14節)
                   
 今年も間もなくアドベントの期間に入ります。御子イエスの降誕の日を、喜びをもって待ち望んでいく日々を迎えるのです。しかし、私たちにとってクリスマスは毎年同じように繰り返されるお祭りとしてのお祝いの日、浮かれ騒いで喜ぶような喜びの日ではありません。むしろ、世界中が騒然とした混乱に陥り、人と人、国と国とが互いに疑心暗鬼の目でにらみ合い、お互いの価値観、宗教の違いだけで相手を悪と決めつけ争い合うそのような状況にあっても、このクリスマスは神の独り子が「わたしたちの間に宿られ」その出来事こそすべての人間への愛のメッセージであることを新たな希望としていける喜びの日なのです。

 イエス様がお生まれになった時代も、人と人の間には差別があり争いがあり、貧しさや悲しみがそこかしこにあった、そのような暗い時代でありました。御子イエスが生まれた状況も、不安や恐れに取り囲まれるような状況でした。貧しい家のマリアは御子を宿すという天使のお告げに「どうして、そのようなことがありえましょうか」と不安と恐れを抱いたのです。また、エルサレムの王ヘロデは、「ユダヤに新しい王が生まれる」という東方の学者たちの言葉に、自分の王の座が奪われてしまうという恐れを感じ、ついにメシアを抹殺するためにベツレヘムに生まれた幼子たちを皆殺しにするという凶行に走ったのでした。

 そのように人の命が危険にさらされ、誰もが恐れや不安の闇に怯える暗く恐ろしい状況の中に、神の独り子が「肉となって」宿られた、しかも飼い葉桶を寝床とする小さな幼子として誕生したのです。私たちが過ごしたこの1年の間にも、世の中は恐ろしく悲しい事件や争いが起こり、痛ましく辛い現実が世界中に満ち溢れ、私たちの身も心も寒くするような状況が続いた年であったことを認めざるを得ません。しかし、私たちはそのような罪に満ちたこの世界で、決して罪の支配に縛られ続け罪の現実に絶望せざるを得ない人間なのではないことを、クリスマスのメッセージは伝え続けているのだということに、新たに目を向け耳を傾けるべきなのです。「わたしたちはその栄光を見た」と福音書は語っています。それは明るい不安や恐れの闇が一掃され晴れ渡った青空を見上げるように見たのではありません。むしろ未だ不安と恐れの闇に取り囲まれている、そのような暗闇の続く中に、一本のろうそくの灯が点される、そのような光を見たのです。闇が濃ければ濃いほど、小さなロウソクの光は一層、私たちの目に強く大きくその輝きを輝かせるように、クリスマスの光は、私たちの恐れと不安の闇の中にあってより一層、一人一々の心に宿る希望の光「父の独り子としての栄光」として輝きを増すものとなるのです。

 イエス様は私たちの不安と恐れをご自身が肉となって負って下さった、その恐れの闇を共に味わうために来て下さる。それゆえ、私たちはもはやその主の栄光を鮮明に輝かせる闇として、不安も恐れも信仰の輝く所として、この世界の罪の現実をも、もう私たちを絶対的に支配するものではないと信じていけるのです。恐れの中でこそ、主の愛と赦しの光をこの世界に掲げる一人一々として生きられるのです。
(2015年11月22日週報より)