最も偉い者

 わたしの名のためにこの子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。(ルカによる福音書9章48節)
                   
 先月の10月10日に、広路教会において二組の結婚式を行いました。一組は山田壽一兄のお孫さんの修平さんの結婚式、もう一組は片山久子姉の娘さんの摩衣子さんの結婚式でした。私が20数年前に広路教会に赴任した当時、まだ幼稚園に入るくらいの年齢のお子さんがたでした。自分もそれくらいの年月を重ねてきたことを感じさせられます。また、この11月に入ると、もう10年ほど前まで教会バザーを開いていたことが思い出されます。バザーでもCSの生徒たちや教会員のお子さんたちが、小さな売り子になって一所懸命働いてくれていた姿が懐かしく浮かんできます。

 この子どものような存在こそ「最も偉い者」であるとイエス様は語られました。それは何か特別な才能を持っているとか、賢いとか、他の誰かと比較してその子に価値があるとかないとか言っているのではありません。親はわが子がどれほど大きくなり成長していっても、その幼い頃、まだろくに言葉も発しない小さな子どもの時の姿を思い浮かべ、その記憶を何よりも大切な宝として心に刻みつけているように、イエス様は私たち一人一々の「小さな姿」を決して忘れることはないということなのです。

 「わたしの名のために」という一言が「子どもを受け入れる」という根本的理由として示されていますが、イエス様がまずその小さな子どもとしてこの世界に来てくださった神の独り子であった、そのことがこの言葉の背後にあるのだと言えるでしょう。子どもは親の愛に絶対的に依存している存在なのです。母マリアが「お言葉とおり、この身になりますように」とその身に宿った子を受け入れた愛、父ヨセフが「神はわれわれと共におられる」と神様から示され幼子イエスを受け入れた信仰による決断、その愛と信仰がこのイエス様の福音の出発点であったことを思い起こされます。私たちもまた、イエス様と同様、この親や周囲の大人たちの愛とその愛による忍耐と慈しみの眼差しによって育まれた自分自身を、誰との比較でもなく、そのまま価値あるものとして受け入れることが出来るのではないでしょうか。明治期のキリスト者であり教育者であった井口喜源治という人は、教え子の子どもたちに「偉い人にならなくても良い。いい人になってください」と言っていたそうです。教育が「偉い人」になる、立身出世のための教育であることが当たり前であった時代に、「いい人」になることを一番大事なことと言ったその言葉は、イエス様が子どもに対して注がれる愛の言葉そのものであったと言えます。

 自分自身が見返りなしに愛されたことを自分の人生において最も大切なものとして知る人は、その愛をまた誰かに対し見返りなしに注いで生きることが最も喜びに満ちた人生であることを知るのです。イエス様が「最も偉い」と言われるその意味は、自分自身が誰との比較でもなく、他の人と取り換えられない独自の価値を持っていることを主の愛によって見出し、その愛に何よりもの喜びと感謝をもって生きていける、その姿勢こそ「最も偉い」ということなのです。
(2015年11月8日週報より)