地の塩として

 あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。(マタイによる福音書5章13節)
                   
 塩は塩である以外の何ものにもなれません。それは見かけは砂糖や小麦粉のように、小さくて白い粉に過ぎませんが、砂糖のようにコーヒーに入れるわけにもいかず、小麦粉のようにそれを焼いてパンを作るわけにもいかないのです。塩は塩である以外に意味のない存在であり、他の何かの代用品として使うことが出来ないものなのです。

 同様に信仰も、それをお金儲けや立身出世の手段やこの世で権力を行使するための道具のように使うわけにはいきません。信仰は塩が塩以外のなにものにもなれず、また他の何かの代用品にも出来ないように、主イエスにすべてを委ね、主の御言葉を自分の人生の最も正しい道しるべとして歩む、そのことだけを目的としてそれ以外には意味を持たないものと言って良いでしょう。

 「世界一暑い場所」という番組で、次のようなことが紹介されていました。アフリカ東部に、日中日陰でも40度を超える地域があり、そこに非常に塩分濃度の濃い湖があるのです。その湖に、百キロも離れた村から塩を集めに来る人たちがいます。夜中から明け方にかけ塩を集め、それを百キロ先の村まで運び、小麦粉や他の生活用品と交換するという生活をしている人たちなのです。日中、塩を持ち帰る途中、温度が上がって来て危険だと見定めると日陰で休憩するのですが、そこですら40度にもなる暑さなのです。夕方涼しくなると、今度はパンを焼きはじめます。日中、太陽に照らされた石ころがまだ相当に熱さをとどめていて、それを集め、その上に直接小麦粉を水で練ったものを貼り付け焼くのです。15分もしたらパンが出来るのです。そのような過酷な環境に暮らす人たちに「どうして、こういう生活をし続けているのか?」と尋ねると、こう答えが返ってくるのです。「ここで生きることは決して楽ではないが、自分たちにはここでは自由がある」と。環境的にも経済的にも恵まれているとは言えない中、しかし生きるために必要なものはすべて与えられている。塩と小麦粉と水があれば、道に転がっている石を用いてパンが作れるのです。そのわずかなものを用いて生きる術や知恵が育まれている、そういう人たちこそ余計なものに依存せずに自由に生きる、そのことを何よりもの恵みとして生きられる人たちなのだと言えます。

 信仰とは、この世的な状況や条件によって、右に左に逸れたり揺らいだりするものではなく、ただ主イエスの愛のみに人生の主導権を握ってもらった人間として、それ以外のどんなものにも依存せず、またわずかなものからも主の恵み導きを見つける知恵と喜びを育まれる、それゆえどんな時代や社会状況の中でも自由に生きることの出来る道なのです。私たちは、そのような「地の塩」として、主イエスの愛の塩味を味付けられた者として、それ以外のどんな条件や状況にも靡(なび)かず揺るがず自由に生きることが出来る一人一々であり、その喜びを、他の何もののも勝る真実の喜びとして、この世界の一人一々に証ししていける信仰者として歩み続けて行きたいと願います。
(2015年10月25日週報より)