雑用という用はない

 「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。(ペトロの手紙Ⅰ 1章24~25節)
                   
 今は秋の真っ盛りで、秋の草花が様々な彩で私たちの目を和ませてくれます。しかし、後1か月もすると、その花も枯れ木々は枯葉を散らし始め、冬の装いへと移り変わっていくことでしょう。私たちの人生も、「その華やかさ」を誇らしく輝かせる時期は決して長くは続きません。ある年齢になり「ああ、あれも出来なくなった。これも昔のように上手く出来ない」という、肉体的にも精神的にも自分のかつて持っていた様々なものが失われていく喪失感を味合わざるを得なくなります。

 しかしまた、その中で決して失われないものがあるとするならば、自分の人生の中でいつも自分を支えてきたある人の言葉であったり、そのような人との出会いによって自分が変えられたという経験の記憶であります。

 渡辺和子という有名なカトリックのシスターが若い頃、次のような経験をしたそうです。修道院に入りたての頃、毎日が掃除、洗濯、アイロンがけ、つくろいものといった「雑用」に費やされ、こんなつまらない仕事に明け暮れする毎日への焦りを覚えた時のことだったと言います。修道院の食堂のテーブルに、百人以上の人の皿やスプーンという食器を機械的に並べていた時、自分を指導してくれていたシスターがこう聞いてきたのだそうです。「あなたは、食堂でお皿を並べながら、何を考えていますか?」と。渡辺さんは「別に、何も」と答えつつ心の中で赤面したと言うのです。そのシスターは次にこう言ったそうです。「一つひとつ、音をさせないように、静かに置いてごらんなさい。さらに、そこに座る人が幸せになるようにと、心をこめて置いてごらんなさい」と。

 この経験から渡辺さんはこう言っています。「世の中につまらない仕事や雑用はない、人間が用を雑にしている時、それは生まれる」。私たちは、自分自身の人生を「つまらない」ものにしているのは誰でもなく、自分自身であるということなのです。また「こんなつまらない雑用に時を費やして何になるのか」と考えながらやること自体、自分を雑な人間にしてしまうのでしょう。

 「自分はあれも出来なくなった。前はこんなことも当たり前に出来たのに」と過去の「華やかな」自分の姿を思い描き、現実の自分を「つまらない」価値のないもののように考えてばかりいてはますます自分を雑な人間にしてしまうのがオチなのです。むしろ「自分はあんなことも出来た。こういうこともやってきた」と過去の自分の経験に感謝しつつ、「あの時の自分でなければ、このこともあのことも出来なかった。今の自分も今の自分にしか出来ないことがある」と自分の現実の中に新しい可能性を見出していくことが大切なのです。

 「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」この御言葉に生きる時、いつの時代も私たちは自分を主の前に価値ある者として心の花を咲かせていくことが出来るのです。雑な人間から自らを丁寧に生きる人間へと。
(2015年10月18日週報より)