激変する世界の中で

 お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。(ヨナ書4章10~11節)
                   
 今年は台風が続けざまに発生したり、大雨のために堤防が決壊し町を呑み込むという大災害が発生しました。「経験をしたこともない」という表現がなされるほどの異常気象に見舞われていることが言われています。しかし、先日のテレビ番組では、修学旅行で訪れる名所の一つでもある「登呂遺跡」は、紀元127年に異常な降雨によって川が氾濫し、一村全体が押し流されてしまった災害の跡であるという話をしていました。弥生時代にも、経験をしたこともないような異常気象によって、「一夜にして」平和な生活が破壊され、多くの人が暮らす村が滅んだという事実があったのです。

 地球の長い歴史のサイクルから眺めるならば、現代の私たちが「異常気象」として恐れたり動揺させられている現象も、決して異常なことではなく、常に自然そのものが変化し続けていることの表れに過ぎないのだとも言えるでしょう。古代文明発祥の地の一つであるエジプトも、ナイル川の氾濫によって上流から肥沃な土が流されて来た結果、そこに多くの収穫がもたらされることとなり、豊かな文明が花開いたということも歴史上の事実です。このように、私たちにとって災いとなる気象の変動や災害も、別の面からは人間の営みに豊かな変化をもたらす自然の恵みをも与えるものであったとも言えます。それは「一夜にして」生活を激変させもすれば、またそこから新しい希望の種を芽生えさせることもある、それが変化し続ける自然の営みによって示されている事柄ではないかと思います。

 ヨナ書はイスラエルの預言者ヨナが、神様の命令によって敵の国アッシリアの都ニネベに行き「滅びの預言」をしたという物語を描いています。しかし、その滅びの預言を聞いたニネベの人々は王様から家畜にいたるまで断食し悔い改めたのでした。神様はそのニネベの悔い改めを見て、ヨナを通して告げた「滅びの預言」を撤回しニネベは救われました。ヨナは敵の都の滅びを願って預言したことが、神様によって変更させられたことに腹を立て、町を見下ろす丘の上で町が滅びるまで動かないと強情を張ります。しかし日中の暑い日差しに苦しむヨナのため、神様は一夜にして「とうごま」の木を生やさせ日陰を作ってやりました。しかし次に、そのとうごまの木に、神様が虫を送り噛ませたので木が枯れ日陰がなくなってしまいます。そのため苦しみ怒ったヨナに、「お前が、一夜にして生じ、一夜にして滅びたとうごまの木を惜しむなら、私が12万人以上の人が住むニネベの町を惜しまないはずがあろうか」と神様は言われたのでした。

 神様は、どんな国のどんな人々をもその滅びを喜ばない、私たちの目には互いに憎むべき存在に思えるそのような相手をも神様の惜しむ大切な一人に違いはない、その神様の愛を知る者として私たちキリスト者は激変するこの世界状況の中で、最悪と思われる事態の中でも、その愛と平和の希望の種を蒔き続けて行けるのです。
(2015年9月27日週報より)