信仰の塔

 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。」(ルカによる福音書14章28節)
                   
 塔を建てる、それは古代社会においては自分の名を高めようとする行為でありました。創世記の「バベルの塔」の物語は、そのような人間の神の高みまで至ろうとする野望のお話です。しかし、神様は人間の言葉を通じ合わせなくするという奇跡によって、その塔の建設計画を頓挫させたのでした。

 福音書でイエス様が語った「塔を建てる人」のたとえは、決して神様の介入によってその計画が頓挫するお話ではありませんが、ここでは塔を建てる人自身が「まず腰をすえて計算」するかどうかがテーマとして語られています。つまり、塔の建設計画が頓挫するか否かは、塔を建てる人の「腰をすえて」計算するか否かに掛かっているのだ、ということです。

 私たち広路教会も8年前に会堂建設をしましたが、その建設に至るまで13年もの長い時をかけて「腰を据えて」計算したということも事実です。まず費用の計算で、どのように献金を募るのか、どれほどお金が集まったら工事を始められるのか等々、何度も話し合われたのです。そして、どのような会堂にしたいのか、教会の皆からのアンケートもとに考え、他の教会の会堂を見学させてもらったりもしました。設計士や建設会社を選ぶのにもコンペを行い、皆の求める会堂に相応しい設計や建設方法を「熟議」して決めたのです。

 その意味で、私たちは今時のオリンピック委員会よりも、はるかに優れた大仕事を成し遂げたと誇ることが出来ます。まあ自画自賛はこの程度にして、イエス様がこの「塔を建てる人」のたとえで伝えたかったことは、何のためにそのような時間をかけ熟議し苦労を重ねていくのか、その目的について「腰をすえ」考えなさい、ということではなかったでしょうか?

 「自分の名を高める」という目的で人間の功名心から始められた計画なら、バベルの塔のように頓挫する事柄でしかないでしょう。しかし、私たちは「神様のみ名」が高められるため、その伝道の拠点として会堂建設に取り組み苦労し励んだのでした。イエス様の福音によって救われた喜びを、さらに一人でも多くの悩む人悲しんでいる人、重荷を負う人に伝え励まし慰めるためにです。

 この信仰によって始められた計画は信仰により完成することが出来る、それこそ神様の御業として行われる奇跡なのではないでしょうか。また信仰とは、すでにイエス様によって「救いの御業」が完成している、その喜びを土台として、そのイエス様の御業を世界に宣べ伝えるための「塔」を建設する道であると言えるでしょう。確かに、私たち自身にとって、自分の信仰はまだまだ完成など出来ない、それは遙か先のことのように思える、という人の方が多いでしょう。しかし、イエス様によって救われた喜びとそれを宣べ伝えたいという思いがあるならば、すでに神様の目には私たちの日々の信仰による小さな業も、確実に完成する塔の一つ々つの石を積み上げる作業として映っているのです。「腰をすえた」信仰の業に励みましょう。
(2015年9月20日週報より)