生きた水

 渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。(ヨハネによる福音書7章37~38節)
                   
 先週、台風18号が愛知県に上陸して福井県まで日本列島を縦断していきました。しかし、この台風の直接の被害よりも、その台風によって太平洋から湿度の高い空気が流れ込み、大量の雨を関東東北地方に降り注がせ、その雨による土砂崩れや洪水が大きな被害をもたらしました。水の力というものの恐ろしさを、あらためて思い知らされます。

 水というものは、私たちの生活にとって欠かすことの出来ないものであることは間違いありません。お米も水田に水を張って植え付け、その水を吸って稲が成長していきます。しかし、大雨で水に浸かった稲は、すぐに発芽してしまい不良品となってしまうことも多いと言います。台風がこの稲を駄目にしてしまうことも珍しくはないのです。花も、枯れないように水をやって育てますが、やりすぎると根腐れして元も子もなくなる場合があります。

 私たち人間にとっても、水は生きる上で欠かすことの出来ないものです。この夏は特に連日30度を超える猛暑が続き、熱中症で搬送される人も例年より大幅に増えたことは記憶に新しいことであります。こまめに水分補給をすることが大切なことを、ことさら確認させられるひと夏でした。しかし、その人間を生かすための水も、洪水や土砂崩れをもたらすほどに大量になると、逆に命を奪う凶器にもなるのです。

 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」とイエス様は呼びかけました。それは、人を真実に生かす愛の御言葉を受けよ、という勧めであります。しかし、それは木や花に水を注いだり、雨のように上から降り注ぎ、時として災害をもたらすような結果となることもある、そのような外側から与えられるものではありません。イエス様の御言葉は、人の心の内側で「生きた水」となり川として流れ出るものなのだ、と示されているのです。

 人は自分自身の内に「渇きを癒す」源泉を持っているならば、もうそれ以上に外からの水は必要ではありません。逆に、いつも自分自身の欲望に渇き続ける人間は、お金や名誉や権力といったものをいくら持っていても、決して心の渇きを癒すことは出来ません。ただ、イエス様によって「あなたを決して一人にはしない。わたしはかならずあなたと共にいる」そのように語りかけられ、愛され、守られ、導かれていることを信じる者は、自分の心の渇きを十分に癒されているその喜びによって、その喜びを湧水のように他者へと流れさせていく者となっていくのです。

 小さな小川の流れでも、旅人の渇きを癒す「生きた水」となるように、私たちが礼拝ごとに分かち合う小さな御言葉一つ々つが、私たちの内に泉となってこの世界の一人一々の渇きを癒す流れとなって溢れ出す。その信仰に生きる私たちにとって、イエス様の愛の御言葉は尽きることなく自分も他者も生かす命の水なのです。
(2015年9月13日週報より)