水一杯でも

 はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。(マタイによる福音書10章42節)
                
 「水屋の富」という落語があります。毎日、水を売り歩く商売をする男が主人公のお話です。その水屋の男が、ある時何げなく一枚の富くじを買ったところ、それが大当たりして今まで目にしたこともない大金を手に入れました。しかし、貧乏長屋に住む男は、その大金の置き場所に困り果て、長屋の床下に隠すことにします。そして、朝商売に出る前に縁側の床下を長い棒で突いて、その在りかを確認してから商売に出ます。また、夕方、商売から帰ってきたら、また長い棒で床下を突いてお金があるかどうかを確認する、そのような行動を毎日繰り返すようになりました。すると、その水屋の行動を隣で覗いていた長屋の他の男が、水屋の留守中に床下に潜り込んでお金を発見し、それを持って逃げてしまいました。水屋が帰ってきていつものように棒で床下を突くと、手応えがなく、お金が盗まれてしまったことに気づき、水屋はこう言いました。「あーあ、これで心配の種が無くなった」。

 慣れない大金を手にした男の、お金に振り回された挙句の悲喜劇というようなお話です。しかし私は、この水屋の男は決して自分の身の上に起こった出来事を不幸には思わなかったように思えます。この水屋の男は、大金が手に入った後も、水を売り歩くという商売を続けたのです。なぜなら、自分が商売をやめたら、自分が持ってくる水を待っている人たちが困る、だから大金を気にしながらも、毎朝水を売り歩くために出かけていったわけなのです。それはこの水屋にとって、思いがけなく手にした大金よりも、もっと大切なことであったと言えるでしょう。

 「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませる」行為、それは、人間にとって、自分自身が生きている意味や価値を何よりも感じることの出来る行為なのではないでしょうか?お金は自分の生活を楽にしてくれる、生きて行く手段として必要なものでしょう。しかし、お金の方は人間を必要とはしてくれません。私たちは、自分が誰かに必要とされていることを知るならば、たとえ水一杯でも自分がある人の喉を潤すために与えることが出来たなら、そのことが自分自身の人生を潤す行為ともなるのです。学生時代に、あるボランティアグループに参加したことがありました。しかし、気のきかない私は何をやっても他のボランティアの人たちの邪魔になるばかりで、自分は本当に役立たずだと思い知らされ、落ち込むことが多かったのです。ある夏、施設の人たちと軽井沢の山荘に泊まりこみのキャンプをした時、夜、口の不自由な子が自分の口を大きく開けて何かを訴え始めました。リーダーの先生やベテランのボランティアの人が、夕食に出た魚の骨でも喉に刺さったのか、懐中電灯でその子の口を調べたのですが、何も見つかりません。私はそばでその様子を見ながら、昼間、山荘のそばを流れる小川の水を掬って飲んだ時、その冷たさとうまさに喉の渇きが一ぺんに癒されたことを思い出しました。「その子、喉が渇いているんじゃないですか」と私が言った言葉に、今まで口を大きく開けていたその子が嬉しそうに頷いたのです。こんな小さな出来事も、私にとって自分がその子にとってその時必要であったのだとと、懐かしく思い起こせる価値ある記憶です。
(2015年8月30日週報より)