自由に大胆に生きる知恵

 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊にとりつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。(マタイによる福音書11章18~19節)
                
 最近、2020年に開かれる東京オリンピックのエンブレムに採用されたものが、海外のある劇場のロゴマークに類似しているということが話題になりました。そのことを切っ掛けにして、エンブレムの作者の他のデザインにも「盗作」ではないかという疑惑が次々と出てきていると言います。非常に単純で抽象化されたデザインは、それがどれほど似ているのか、また違っているのかということの判断はつけにくいものです。しかし、いったん「盗作」ではないかという疑惑を持たれたら、それが本人のオリジナルな創作であっても、なかなかそうだとは信じてもらえなくなる、むしろそういうスキャンダルをさらに炎上させていくことで、有名になった人間や成功している人の足を引っ張ることに快感さえ抱くようになる、それが現代の風潮ではないでしょうか。

 イエス様の時代も、そのような世間の注目を集める人間に対して、中傷ややっかみがあったことを聖書は伝えています。洗礼者ヨハネが、荒野で多くの人に「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語り洗礼を授け、キリストの先駆けとして活動した時、彼の人気を妬んだ人々がヨハネの禁欲的な生活を「悪霊に取りつかれている」証拠だと噂したのです。また、イエス様が現れ、貧しい人々や罪人と蔑まれている人々に福音を宣べ伝えはじめると、今度は、イエス様がヨハネのように禁欲的な生活をせず、徴税人といった当時嫌われ者であった人たちと一緒に食事するその姿に対し、イエス様に反対する人々は「罪人」のしるしだと言う声をあげたのです。

 人は自分の価値観や考えとは異なる相手に、あるいは自分がその相手のような世間の称賛や人気を集めることが出来ない悔しさのあまり、その人間の食生活までも種にして悪口を言い、その評価を貶めようとする、それは昔から変わらず私たち人間の心にある「自分が認められたい。他の人間よりも自分の方を注目してほしい」という欲求から来るものなのでしょう。私が学生時代に出会ったある牧師は、ホームレスの人たちのために自分の生活をホームレスの人のようにまで変えて、その人たちに福音を伝えていったという大胆な方でした。しかし、ある新興宗教の人がその牧師にこう言ったということです。「キリスト教のような邪教を信じていたら、罰が当たって5年後に死ぬぞ」と。するとその牧師はこう答えたのです。「それは有難い。あと5年も私の命を保証してくれるとは、あなたの信じる神様はたいした方だ」と。

 「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される」人間は自分のやっていることに、たとえそれが世間の評価を得ようが得まいが、これが自分に与えられた神様からの使命だと信じていけるなら、もはやどんな中傷も悪口も気にならなくなるのです。人は自分の人生を世間の評価という基準ではなく、誰がどう喜んでくれるのかという愛を基準として生きる時、最も自由に大胆に生きられるのです。
(2015年8月23日週報より)