注意して聞きなさい

 何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。(マルコによる福音書4章24~25節)
                
 上記の言葉にある秤とは、穀物の量をはかる時に使う枡のように、容積によって入れる量が決まっている秤のことであります。つまり、空っぽの枡に、すれすれまで穀物が入れられる時、その穀物の量がその枡の容積に匹敵する、そのように計測できる秤のことを言っているのです。その秤そのものは空っぽであってこそ、正しい秤として機能しますが、余計なものが中に入っていたり、底上げしている枡は正しい量をはかることは出来ません。それと同様に、信仰というものも、余計なもの、神様の言葉以外のものを心の中に持っていたり、自分が空っぽであることに不安を感じてあれもこれもと中に詰め込んでしまったら、十分に御言葉を聞くことも行うことも出来ない、役にたたない秤になってしまうのです。

 ある大手の企業が、利益優先のために会計を粉飾し不正な会計処理をしたことで、それまでの信用を台無しにしてしまったというニュースが最近ありました。自分たちの業績を水増ししてさらに優良企業としてのイメージを高めようとするあまり「持っているもの」長年の信用までも取り去られてしまった、という一例であります。それは利益優先という不正な秤を用いて、自らを大きく見せようとする、今までの信用の上にあぐらをかいて、みてくれだけを装う、そのような虚飾に走る人間すべてが陥る落とし穴なのです。自分のためだけに、富や名声や権力に執着し、人を騙してでも己の利益を図る、そのような不正な秤は本当の人間の幸せも人生の価値も量ることが出来ない、余計な中身をぎゅうぎゅうに詰め込んでしまった無益な秤でしかありません。

 「何を聞いているかに注意しなさい」・・・神様は、私たちが自分の利益や名声や権力に執着して生きる、そのようなことは生き方を望んでもおられず、教えてもおられません。むしろ、何一つ持たない空っぽの枡秤のように、神様の愛を擦り切れるほどに注がれる者として、さらにそれ以上に与えられる者として、その神様の愛に生きること以外に何物にも囚われない生き方を望まれておられるのです。私たちは、その神様に私たちの秤から溢れ出るほどの愛を注がれ、それ以上に求める必要などないほどの価値ある信仰という賜物を与えられているのです。その信仰によって私たちは本当に聞くべき言葉、行うべき愛の教えを正しく受け取っていけるのではないでしょうか。

 私たちは聖書の言葉をその神の愛というキーワードによって読み解いていくならば、どの一言も決して私たちを生き生きと活かさない言葉はないことを知るでしょう。心を刺されるような一言も、しばし苦痛を覚えなければならない言葉もある、そのような御言葉にも「注意」して耳を傾けていく時、イエス様の十字架の愛によって書かれていない言葉など一言もなく、すべては私たちを愛に生かすために与えられた、汲んでも尽きない命の水のように「聞くべき・行うべき」御言葉として、私たちの心に注がれている、その事実に気づかされていくのです。
(2015年7月26日週報より)