あなたはどこにいるのか

 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」(創世記3章9~10節)
                
 先週、衆議院で「安全保障関連法案」が与党の数の力により、強行採決されました。日本が戦後70年間、決して他国と武力をもって争うことをしない、そのために定められた憲法の条項を拡大というよりも極端にゆがめ解釈し、国際社会の平和を維持するためには、同盟国と共に日本も戦争に加わるべきだ、そういう本末転倒した法案が、多くの憲法学者の違憲ではないかという忠告をも無視し、採決されてしまったのです。

 人はこのように武力をもって身を守る、誰かが自分に危害を加えるのではないか、という極端な妄想を膨らませて、そのために「鋤を打ち直して剣を作る」ことをもしてしまうのです。アダムは神様の足音を聞いて身を隠した、と創世記の物語は記しています。彼は伴侶のエバと共に、エデンの園の中で唯一食べることを禁じられていた「善悪を知る知識の実」を食べてしまったからです。そして、それまで裸であったことを全く気にもかけていなかったのに、急に自分たちが裸であることに恥を感ずるようになり、神様の目を恐れ隠れざるを得なくなってしまったのです。

 日本の政府は、憲法が示す「戦争放棄」という無防備な「裸」の状態であることを恐れ、より強い武器、戦うことの出来る準備、その法整備にもはやパニックに陥ったようになって、平和を訴える多くの国民の呼びかけにも応じようとはしません。それは、神様の留守中にやってはいけない盗み食いをしたアダムが、神様の近づいてくる足音に怯え木陰に隠れ、神様の「どこにいるのか」との呼びかけに「裸だから隠れている」と言い訳に終始する、その姿に似ているように思えます。

 裸であることが問題なのではありません。本来、裸は人間のありのままの姿であり、神様はその裸をむしろご自身の「似姿」として創造されたのでした。それを恥じ恐れること自体に人間の問題、神様の望む真実の平和の道を見失った、それゆえ自分で自分を守ることしか出来なくなった人間自身に問題があるのです。

 裸であることは、確かに最も無防備な状態でありますが、最も平和な姿、何の恥も恐れも感じない、幼子のようなものです。何も身に着けていなくても、ただ愛されていることを知り、また愛する存在があることを喜び、互いに決して傷つけあわないことを信じ合って生きる、それが裸でも恥じることも恐れることもない生き方なのです。

 日本の憲法はそのように武力という自分で自分を守るためのものを放棄し、むしろどの国とも真実の信頼関係をもって国際平和に貢献できる、世界でもまれなる宝のようなものです。それはある意味、この疑心暗鬼に満ちた争い絶えぬ世界の中で、希望の灯のように灯された光なのでもあります。その光を私たちは恥じることなどあってはなりません。むしろ、そのような平和以外の道を知らない者として、一人一人が愛し合い赦しあい助け合う姿「裸」で生きる姿を誇りとしていくべきです。
(2015年7月19日週報より)