うめきつつ、聞いて下さる方

 同様に‘‘霊,,も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、‘‘霊,,自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。(ローマの信徒への手紙8章26節)
                
 ある人が次のようなことを言っています。「私の話を聞いて下さいと頼むと あなたは助言を始めます 私はそんなことを望んでいないのです 私の話を聞いて下さいと頼むと あなたはその理由について話し始めます 申し訳ないとは思いつつ私は不愉快になってしまいます 私の話を聞いて下さいと頼むと あなたは何とかして私の悩みを 解決しなければという気になります おかしなことにそれは私の気持ちに 反するのです 祈ることに慰めを見出す人がいるのは そのためでしょうか 神は無言だからです 助言したり調整しようとはしません 神は聞くだけで 悩みの解決は自分に任せてくれます ・・・」(作者不明の詩より)

 私はよく「いくら祈っても祈りが叶えられない。神様はちゃんと祈りを聞いてくれているのだろうか?」と不満を覚えることがあります。しかし、祈ってすぐ叶うような祈りだとすれば、それは本当に大切なことを願っての祈りなのでしょうか?また「頭が良くなりたい」「もう少し髪の毛が欲しい」というような願いは、本人には切実な願いであっても、神様に聞いてほしいと言うほどの内容とは思えません。ただ、私たちは「まず、誰かに自分の悩み苦しみを聞いてほしい。わかってほしい」と願う、その気持ちを誰かと共有できれば、その苦しみ悩みも自分自身で時間がかかっても解決していこう、という力や希望が湧いてくるものではないでしょうか。

 上記の「聞いてください」という詩には、神様は「聞くだけ」で、こうしなさいああしなさいという助言も支持も与えない、と記されていました。それは「聞くだけ」であることが最も大きな神様の答えとなっているからだ、と言えるでしょう。神様、イエス様はただ「漫然」と私たちの祈りを聞いておられるのではありません。むしろ、私たちの祈りを、ご自身が「うめき」をもって一緒に祈る方として聞いてくださるのです。「困りました、どうしたら良いのかわかりません」と困窮する者の祈りに「そうだね、本当に困ったことだね。どうしたら良いのか本当に分からないよね」そのように共に「うめき」共に考えてくださる、それが神様またイエス様の「ただ聞くだけ」の姿勢なのではないでしょうか?

 聖霊は、そのような私たちの「うめき」としての祈りを共に共有するため遣わされ、私たちの苦しみ悩み呟きの一切を、私たちと同じ立場に立って祈ってくださる、聖書は告げるのです。私たち信仰者は、この世において悩みうめかざるを得ない存在であることに変わりありません。信仰を持たない人と同じく、様々な悩みに苦しむことに違いはないのです。ただ一つ違いがあるとすれば、それは私たちの言葉にならないほどのうめきを、一緒にうめいてくださる方がおられる、そのことを知っているという一点であります。その神様に祈ること、そして聖霊も共にうめくほど私たちと共感し執り成しの祈りをしてくださっている。そのことを知っている喜びが、私たちにどんな困難な状況の中でも祈り続けていく力と希望を与えるのです
(2015年7月12日週報より)