信仰のリズム

 彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガリラヤ地方を通って行った。(使徒言行録16章6節)
                 
 ある時、スーパームーンと呼ばれる、月が普段よりも大きく見えるという現象を目にしたことがあります。その日は夜、出先から帰ってきたのが午後8時を回っていたのですが、ふと空を見上げると、雲間に月がおぼろげな姿を現していたのです。それが実に大きく赤みがかったほぼ真ん丸な形で、目に飛び込んで来ました。私は以前こんなに大きな月を見たのは何時だったかと記憶の引き出しを探っていたら、それはまだ小学校にも入っていなかった頃、家の近くにあったイチゴ畑の中に立ち空を見上げ、その時に同じ大きな赤い月を見たことを思い出しました。そんな遙か昔の光景を思い出させるような月の光だったのです。

 私自身、説教を語りながら「あれ?これ前にも話したことのある話じゃないか」と、ふと不安になることがあります。聞いている人も「ああ今日の説教は前にも聞いたことがある。牧師も話すネタが無くなったのじゃないか」そう思っているかも知れない、と自分の説教のマンネリ化にがっかりしてしまうことも多いのです。ただ、そういう同じ話を繰り返しても、その話が「ああ、この話を前に聞いたのは自分がこんな風な悩みや苦しみを抱えていた時だった。その時はこの言葉で自分は慰められた」という思いを持って誰かが聞いていたとしたら、それもまた、その人の信仰を再び力づけ支えることにもなるのではないか、そんな風に自らのマンネリ化した説教も意味があるのだ、と自分を慰めるようにしています。

 私の説教はマンネリ化しても、それはそれで一つのリズム、信仰のリズムというものを形づくることもある、と考えています。使徒言行録では、パウロが宣教の旅の途上、しばしば「御言葉を語ることを聖霊によって禁じられた」ということが記されています。聖霊は宣教する人間を励まし、神様の福音を語らせる霊であるはずが、その聖霊によって宣教の言葉が禁じられたというのです。多分、パウロはこの時、病気で動けなくなったか、何かの事情で計画していた旅程を断念せざるを得ない事情ができたのではないか、と思われます。その自分たちの思いや計画がままならない、何もかも裏目裏目に出てしまう、そういう厳しい経験を通し、でもそれが聖霊の導きであったことを後にパウロたちは気づかされ、この使徒言行録の「聖霊によって禁じられた」という表現を使うことになったのだ、と思います。

 しかし、このことがきっかけとなり、パウロは夜マケドニア人の幻を見て、マケドニアへの宣教へと向かうことになったということです。それまで、何もかも上手くいかない状況に疲れ切っていたパウロに、再び希望がよみがえってきたのです。夜空にかかる月が徐々に欠けて全く見えなくなる新月に達した後、また再び光をよみがえらすように、苦しみや挫折の連続の後にこそ、思いがけない新たな希望の道が開かれる、そのような信仰のリズムをパウロは繰り返される試練の経験を通し、深く心に刻みつけていった人でありました。私たちも、苦しみや悩みの経験を「聖霊によって禁じられる」こととして思い起こす時、その向こうに新たな希望の道が備えられていることを信仰の喜ばしいリズムとして心に刻みつけていけるのです。
(2015年6月28日週報より)