一切を捨てていける喜び

 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。(ルカによる福音書14章33節)
                 
 私は神学校を出て、牧師になる前、1年程無職のまま親元にいたことがあります。学校は出たものの、本当に教会の牧師になれるのかどうか、まだ何の当てもない時でした。ちょこちょこアルバイトをして時間を潰していましたが、ほとんど親のすねをかじって無為な生活をしていたのです。そんなある日、もう独立して社会人として働いていた二人の兄がやってきました。私は晩御飯の後、早々と自分の部屋に入り布団にもぐりこんだのですが、兄たちが父や母に言っている言葉が襖を隔てた隣の今から聞こえてきたのです。「あいつ、いつまで家に置いておくつもり?俺たちはあいつの歳にはもう自立して働いていたんだ。あのままじゃ、あいつはダメになってしまうよ」と。その言葉が耳に入って、私は寝るにも寝られず、惨めな思いで夜を明かしたのでした。

 幸い1年後には、お世話をしてくれる人がいて、私は牧師として教会に赴任することが出来ましたが、あの時の惨めな気持ちは忘れようにも忘れられない思いとなって残っています。しかし、そういう経験を通して、家族という自分にとっては甘えの対象となり、いつでもそこへ逃げ帰って行ける場は、もう切り捨てていかなければならない、ただイエス様の御言葉のみを自分の人生の唯一の拠り所としていかなければならないのだ、という思いを固くさせられたことも事実なのです。

 捨てるということは、もう一切の関係を断ち切るということとは違います。その捨てるということによって、自分が今まで甘え頼り切っていたものとの関係を、距離を置いて見直していくことが大事なことなのです。そして、今まで自分が守られ支えられ育てられてきた、その愛を与えてくれた一切のものに感謝しつつ、これからはその与えられてきた愛を、神様と他者へと自分が献げていくことを目指す、それが信仰によって「一切を捨てる」ことの意味なのです。

 ただその信仰によって「捨てる」決断は、私たち人間の知恵や努力によって成し遂げることの出来るものでもありません。まず、イエス様が、神様の独り子が、私たちすべての人間の罪のゆるしのために、十字架によってご自身の命を献げてくださった、その最も大きな愛の御業が、私たちに私たちの一切を捨てさせる根拠であり、それ故に一切を捨てても惜しくないほどの喜びの道が、そのイエス様の愛によって開かれたからにほかならないのです。

 そのイエス様の大きな愛を目指す私たちに、それ以外に捨てられず執着し甘え続けて行ける何ものもないのではないでしょうか?確かに、私たちはイエス様のように人を愛し赦し命を献げてまで守れるほどの信仰の強さを持ってはいないでしょう。しかし、少なくとも私たちは自分の人生をこのイエス様の愛に委ねて生きる道を聖書の御言葉を通して示されているのです。そのために「捨てる」べきものを一つ一々喜びをもって捨てていける、それがイエス様の十字架にならい、自分の十字架を背負って歩むことなのだと思います。その信仰の道をイエス様に従って歩もうとする者は、イエス様に愛されていること以外に何一つ惜しむことはないのです。
(2015年6月21日週報より)