言によって生きる

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(ヨハネによる福音書1章1節)
                 
 神学校時代、このヨハネによる福音書の冒頭の「初めに言が・・・」という1節をギリシア語の授業で暗唱させられたことがありました。「エンアルヘー・エンホロゴス・カイホロゴスエンプロストンセオン・カイセオスエンホロゴス」カタカナで書くとまるで中世の黒魔術の呪文みたいになりますが、ギリシア語の授業で何度も暗唱させられたこのフレーズは、今でも頭の片隅にこびりついているのです。

 私は神学校では、大変、出来の悪い学生で、必修のギリシア語とドイツ語の講義についていけずに、人より2年も余計学校に通う破目になった人間です。そういう語学が天敵のような私でも、このヨハネ福音書の冒頭の言葉だけは自然とギリシア語のフレーズと共に思い起こされるのです。ただし頭の中ではギリシア文字ではなく、カタカナ文字でしか記憶していないのが情けないかぎりです。

 ロゴスというのは、言を現すギリシア語ですが、たんに人間の話す言葉というだけの意味ではありません。「万物は言によって成った」とヨハネ福音書の次の節に記されてあるように、すべてのものを創造する力を現している言葉なのです。幼い時に視力と聴力を失い、暗闇と音の無い世界で育ったヘレン・ケラーが、家庭教師のサリバン先生から手の上に冷たいものを注がれ、指で手のひらに何かを書かれ、先生の唇の動きに手で触れて、初めて「水」という言葉を知ったという話があります。その時に、ヘレン・ケラーはこの世界には言葉というものがあることに心の目を開かれ、彼女のあらゆる言葉をむさぼるように吸収し、自分の世界を大きく広げていったといいます。

 言葉はその言葉によって呼びかける相手の存在そのものを規定します。子どもが初めて言葉を覚え「お母さん」「お父さん」と呼ぶようになって、初めてその子には母親・父親という存在がこの世界にあることを認識するようになります。自分にとってお父さんお母さんの存在が、呼びかければかならず応えてもらえる大切な存在として規定されていくのです。同様に、私たちも言葉で呼びかけて、かならず応えが返ってくる、そのような信頼をもって「わたしの主、わたしの神」と呼べるイエス・キリストという存在を自分の人生の中心核として規定していくことが出来るのではないでしょうか。

 神様は天地創造の時「光あれ」という言葉によって創造の御業を始められ、その言葉をもってすべての生きとし生けるものをこの世界に生み出された、と聖書は伝えています。私たち一人一々もその神様の「言」によって、「あなた」と呼びかけられ「わたし」が誰でもない「わたし」自身であることを認識できるものとされているのだと言えるでしょう。言はそのように、私たち一人一々の存在意義を明らかにし、誰一人「わたし」の代わりになる者はなく、誰一人神様に大切なかけがえない存在として呼びかけられない人はいないことを明らかにしてくれるのです。

 イエス・キリストはその言として、私たちを新たな神の子として生きる者へと創造し、決して忘れえぬ一人一々として愛をもって呼びかけ導いて下さるのです。
(2015年6月14日週報より)