また会う日まで

 今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。(ヨハネによる福音書16章22節)
                 
 あるドラマの台詞の中に、次のようなものがありました。「会いたいと願っている人との再会の喜びの半分は、その人との再会を待っている時間の中にある」。再会するということが長い時を隔てた後のことであっても、その相手を心の中でいつも思い続けていける、そのような気持ちが強い人ならば、その再会の時には「あれも語ろう」「これも一緒にしたい」とすでに再会した喜びを、会えない長い時間の中でシミュレーションできるものなのです。

 イエス様は、弟子たちに「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶ」者となるのだ、と約束されました。イエス様の十字架と復活の後、またイエス様が天へと昇っていかれたあと、聖霊が弟子たち一人一々に降って、彼らが福音をこの世界に宣べ伝え始めた。この時から聖霊を通してイエス様が弟子たちと出会い続け、その信仰によって互いに再会し続ける喜びに生きる者となっていったのです。聖霊はイエス様の言葉を私たち一人一々の内に宿し、私たちが信仰によってイエス様の望む人生を歩むための導き手守り手として働かれるのです。

 再会する時、その相手がどれだけ以前と変わっていないか、あるいはどのように前とは違っているか、が問題になります。『昔とちっとも変っていない』という言葉は今も若い頃のように見られている、そういう褒め言葉に聞こえますが、変わらないことがかならずしも良いこととは限りません。むしろ、若い時にはいい加減な生き方をして、周囲に迷惑ばかりかけていた「思い起こせば、恥ずかしき事の数々、今はただ反省の日々をおくっております」と言わなければならないような自分を、少しでも努力して、「君も変わったね」と言われたいと思う、今の自分を見てもらいたいと願う、そういう再会に向けての心構えを抱く時もあります。

 イエス様と共に生き旅をし続けた弟子たちは、決して出来の良い師の教えに常に従順な人たちではありませんでした。むしろ、イエス様の思いを理解せず、その教えを誤解したり迷惑をかけることしばしばだったのです。しかし、そのイエス様が弟子たちを残しこの世を去られる時、イエス様は「わたしは再びあなたがたと会う」と言われたのでした。確かにそれは、弟子たちを決して置き去りにはしない、聖霊を通してまた再び会うことの約束でした。ただ、それだけではなく、彼らがイエス様と再会するその時に向けて、本当に喜びをもって互いに顔を見合わせられる、そのような生き方を彼らにしてもらいたいと願っての言葉ではなかったでしょうか?そのように、イエス様から「また会おう」と約束されている私たち一人一々が、いつまでも自分のわがままや、また自分の弱さを理由に、とてもイエス様に顔向けが出来ない、その再会を喜べない者であり続けてはなりません。むしろ、そのような弱さも欠けもあるがままに、イエス様に「あなたはもう私の友、私の兄弟姉妹だ。また会う日まで頑張って生きなさい」そう励まされている事を何よりもの支えとし、いつでもイエス様に「顔向けのできる」日々を信仰をもって歩み続けましょう。
(2015年5月31日週報より)