聖霊の導くままに

 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。(ヨハネによる福音書3章8節)
                 
 先週、強い風の吹く日がありました。教会の竹林がザーッと音を立て、木々が大きく風の勢いに押され揺さぶられる光景を目にしました。また、教会の庭の普段は石に覆われ固まったような地面から、時折、砂埃が舞い上がることもありました。風そのものは目には見えません。しかし、木々が揺さぶられ、砂塵が舞う、そのような勢いを持った風の力は実感できるのです。

 聖霊降臨日を迎え、教会がその時から主の福音をこの世界に告げ広め始めた、その初期のキリスト者の姿を思い起こさせられます。彼らは皆「聖霊に満たされ」イエス様の十字架と復活の出来事を人々に宣べ伝えていったのでした。聖霊が天から降り、弟子たち一人一々の上に留まった、その時にそれぞれが他国の言葉で福音を語り始めたと言うのです。それまで、聞いたことも習ったこともなかった言葉をです。彼らは自分たちのそれまでの知識や価値観で語ったのではなく、自分たちの知らなかった全く新しい言葉を与えられたということなのです。

 風が吹いて雲を吹き飛ばすように、聖霊の息吹はそれまでの人間の既成概念を打ち破り、人間の心を木々のように揺さぶり、さまざまなこの世の価値観に固まり乾いた心から、塵のような小さな、自己中心にしか生きられない罪の思いを舞い上がらせ、新しい自由な信仰に生きる者としたのです。子どもが親から語りかけられる一つ一々の言葉を、その口真似をしながら繰り返し繰り返し話し始めるように、私たち信仰者は、聖霊によって神様・イエス様の言葉を初めて習い覚えた言葉のように、喜びをもって繰り返し繰り返し口にする者となっていくのです。

 教会はいつもその聖霊の息吹が風のように吹いているところ、新しい神様の言葉と知恵とによって私たちの心が新鮮な命へと生き始められるところであると言えます。だから、私たちはその聖霊の息吹を真正面から受けとめ、その聖霊の導くままに自分の人生を生き始められるのです。ただ、時には私たちの思いとは違う風向きになることもあるかもしれません。しかし、そのような時こそ、私たちを新たな方向へと生かそうとする神様の愛が示されているのではないでしょうか?

 「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのかを知らない」とイエス様はおっしゃられました。確かに、思いもかけない人生の局面に、私たちが戸惑い「これから先どうなってしまうのか?」と恐れや悩みを覚えざるを得ない時があります。しかし、信仰によって生きる者にはその恐れ悩む時も「風が思いのままに吹く」ように、神様のみこころによって吹き込まれる聖霊の働く時なのだと信じることが出来るのです。わたしたちは「その音を聞いて」恐れるのではなく、これからどんなことを神様がなさろうとしておられるのかを期待し、新しい方向へと導かれる喜びを日々感じる者として歩み続けていけるのです。今は悩み苦しみに満ちたようにしか思えない暗い日々も、そのような経験を通してこそ現される神様の愛を知るための道のりとして、聖霊の導きのままに進むならば、私たちの歩む道にはかならず福音の花が咲き、愛の実が成るのですから。
(2015年5月24日週報より)