善い業のために造られた

 わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスによって造られたからです。(エフェソの信徒への手紙2章10節)

 ある日の新聞のコラムに、このようなことが書かれていました。それは、夫の運転する車に乗ると、かならず酔ってしまうという奥さんのお話でした。しかし、奥さんはそのことを夫に言うと、夫の「大切な何か」を否定してしまうと思い、黙って我慢して夫の運転する車に乗り続けているというのです。ところが、ある日、夕食の後にイチゴがデザートとして出た時、最後に残った1つをどちらが食べるかジャンケンをしたそうです。そして奥さんはジャンケンに負けて、残りのイチゴを夫が食べることになった時、夫からこう言われたといいます。「君はジャンケンすると、いつも負けるね」その言葉を聞いた瞬間、奥さんは「自分の大切な何か」を否定されたように感じたのでした。そして、今度、夫が「君の作る味噌汁はしょっぱいね」とか「この頃、少し太ったね」と言ったら、その時は「あなたの運転する車に乗ると、かならず酔ってしまうのよ」と言い返そう、そう強く決心したということでした。

 このお話のように、人間の心の中には自分が否定されたくない、自分を否定する相手に自分も相手を否定してやろうという復讐心が生まれる、そのような悲しい性があることは、誰もが思い当たることではないでしょうか?このような言葉一つで、人間関係が台無しになってしまうことがあるのです。また、だからこそ、そのような否定的な言葉を自分が他人に向けて発していないかどうか、注意しなければなりません。私は小学3年生の時、大変、勉強が出来ない子でした。その時に、私のクラスの担任の先生が「この子一人のせいで、クラスの平均点が下がっている」そう言ったという言葉を人づてに聞きました。確かにそれは事実だったのでしょう。しかし、その言葉がその後、ずっと私の心に拭い去れない劣等感を植え付けることになったのでした。

 そのような中で、しかし小学6年生の時の担任の先生からこのような言葉をかけられたことも忘れられません。その先生は私に対し「あなたは、他の誰でもない、あなたなのよ。あなた自身の言葉で語りなさい」と。その言葉が最近になって本当に自分を支えてくれる力ある言葉として意識されるようになりました。私にとって、この一言が聖書の言葉以外に、ありのままの私を肯定してくれた唯一の言葉であったことに、今さらながら気づかされたからなのです。「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られた」このように聖書は私たち一人一々に語りかけています。これほど、私たちを肯定してくれる言葉はないのではないでしょうか?どれほど過ちや失敗に満ちた人生を生きてきたとしても、私のような小さい頃からの拭い去れない劣等感を引きずり続けている人間も、この一言「善い業のために造られた」という全面的な肯定の言葉によって、本当に自分を自分として生きられるのです。私も自分の言葉で、下手くそな説教を30年以上も語り続けてこられたのです。私たちはこの神様に肯定されたように、この世界に生きる一人一々を肯定できる「善い業」をイエス様と共に成し遂げていく、その信仰の喜びに生きられるのです。
(2015年5月17日週報より)