神様が安息される世界

 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。(創世記2章3節)
                 
 先週はゴールデンウィークで、海外に出かけたり、家族そろって帰省したりと、多くの人が寸暇を惜しんで休みの日を満喫するという一週間でした。しかし、その大型連休の後に、またそれぞれの仕事の場、学校での学びの場へと帰って行く時は「もう少し遊びたかった。もう少し休みが欲しい」という気持ちをひきずったまま、職場また学校へと向かうことになります。黄金の一週間も、過ぎてしまえばすぐ色あせたものになってしまい、「もう少し」有効に時間を使えばよかったという悔いが残ることも多々あるのではないでしょうか?確かに、連休を有効に使って、旅行やレジャーを思い切り楽しんだ人たちもいることでしょう。しかし、やはりそのための疲れをひきずったまま、また通常の生活に戻るのは大変なことも事実です。何かを成し遂げたという充実感があって、人はようやく心から休むことが出来ます。「もう少し」という後悔や「ああ、また仕事か、勉強か」というため息が出るのは、そういう充実感が得られないせいかもしれません。

 聖書の巻頭には、神様が6日間で天地万物の創造を成し遂げたという記述があります。そして7日目には神様は「安息なさった」とあるのです。それはご自分の仕事を振り返り「極めて良かった」と神様ご自身が満足された結果だったのです。神様はこの世界を手抜かりなく完成された、だから「極めて良い」という充実をもって心から休まれたのだ、と言えます。それは連休でいろいろなところに出かけて、たくさんのお土産を買い、多くの写真を撮ってそれをアルバムやパソコンに保存する、そのような過ぎ去った日々の記念品を並べて懐旧に浸るということでもないのです。神様はご自分の創造されたこの世界の生きとし生ける者が、どのようにこの世界を喜びをもって生きて行くのか、命ある者同士がどのように互いに助け合い愛し合ってこの世界を成長させるのか、そう期待しまた希望して「極めて良い」世界が出来たという展望を込め、安息なさったのです。

 しかし、この天地創造の完成した日から、極めて良いはずのこの世界が神様の期待とは違う、罪に満ち溢れる世界へと堕してしまった、その現実を聖書は率直に描き出しています。人間が自分をこの世界の主人公のように思い込み、神様の愛も恵みも忘れ、己が欲望のままに走るようになってしまった。その罪のゆえ、人間はこの世界に「安息」することの出来ない、「もう少し」「まだ足りない」という不満と不安を常に抱かざるを得ない存在となってしまったのだと言えます。その人間の罪の現実に対し、神様は独り子イエス様を人としてこの世にお遣わしになった、と聖書は伝えています。それは「極めて良い」はずの世界をイエス様のみわざによって、あの十字架と復活によって本当に「良い」ものとして取り戻すためでした。神様が人間を天地創造の時より愛し続け、「極めて良い」ものとして期待し続けて来られた、その愛にイエス様を通して立ち返ることが出来る。そのイエス様の福音を信じその愛に生きる時、この世界は誠に「極めて良い」神様が安息された世界へと立ち戻っていけるのではないでしょうか。私たちも心から安息出来る世界へと。
(2015年5月10日週報より)