愛によって間違う道

 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。(ルカによる福音書7章47節)
                 
 「私は冷淡でありながら奇跡を行うよりも、親切と慈しみのうちに間違うことを選ぶ」・・・この言葉は有名なマザー・テレサの言葉です。冷淡であるということは決してその人間が特別悪人であることを意味するものではありません。冷淡とは感情的にならない、誰に対しても一定の距離を持つという姿勢であり、その意味では公平な態度であるとも言えます。ある大企業の創業者は家訓として「親友を作るな」という言葉を残したそうです。つまり親友を作ると、その相手に特別な思い入れを抱くようになり、冷静な判断が出来なくなってしまう。一人の親友のために何百、何千人もの社員の生活が掛かっている企業の命運を狂わせてはならない、そういう教えなのです。それは、成功しなければならない、失敗は出来ないという立場に立つ人間にとっては必要な教えなのでしょう。

 それを逆に言えば、愛というのは失敗をしても構わない、間違っても悔やまない、誰かに心を集中して、その誰かのために他のものをすべて投げ出していく姿勢だと言えます。それ故、愛するということは、その誰かとそれ以外の人を分かつ、公平ならざる態度であると言わざるを得ません。聖書は、イエス様がその愛によって、大多数の利益を選ぶことをなさらなかった、その愛によって、この世の価値観からすれば「間違う道」を選ばれた方であったと伝えています。

 イエス様がファリサイ派のシモンの家に招かれ食事をしていた時、そこに罪深い女と呼ばれる女性が入ってきて、イエス様の足を涙で濡らし、髪の毛でその足を拭いさらに接吻をしたのでした。シモンはそのイエス様と女性の姿を冷淡に見つめ、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がどんな人間か分かるはずだ。罪深い女なのに」とイエス様を心の中で嘲笑ったのです。そのシモンの心を見抜いたイエスさまは、彼に一つのたとえ話を語りました。ある金貸しが一人に500デナリオン、別の一人に50デナリオン貸していたが、二人とも返すことが出来なかったので、二人ともその借金を赦してやった、という話です。そして「二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」とシモンに問います。シモンは多く借金を赦してもらった方だと答えました。するとイエス様は、シモンが客として招いたイエス様に接吻もせず足を洗う水もくれなかったのに、この女性は足を涙で洗ってくれたし接吻さえしてくれた、だからこの女性は多く赦されているのだと語られたのでした。

 人が人と出会うのは、客観的にその相手を観察することではなく、その相手が自分の心を動かすほどの愛にあふれた方であり、自分もその愛にどう応えるべきかと必死になる、そういう関係を誰かと共有するということなのです。私たちは、イエス様こそ、私たち人間一人一々の愛のため、ご自身完全なる神の立場をかなぐり捨て一人の人としてこの世界に来て下さったのです。そのイエス様に心を向けられるほどに愛されていることを知るならば、私たちはその愛に応えるために自分の何かを捨ててでも惜しいとは思わない。その「間違った道」をも喜んで選べるのです。
(2015年4月26日週報より)