イエス様の治療法

 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカによる福音書5章31~32節)
                 
 イエス様が徴税人たちと共に食事の席に着いていた時、それを見たファリサイ派の人々が「なぜ、徴税人や罪人などと食事をするのか」と批判したと福音書の記事にあります。ファリサイ派の人たちは、自分たちこそ律法を忠実に守り神様に義と認められる立場にあると自負している人たちでした。その彼らの目には、ローマ帝国の手先として、異邦人のために同胞から税を取り立てる徴税人は、神様に呪われ罰せられて当然の罪人としか見えないのに、イエス様はどうして彼らと一緒に食事をするのか?それが彼らの批判する理由でした。

 イエス様はその批判に「医者を必要とするのは病人である」とお答えになりました。つまり、イエス様の目には罪人とは裁きの対象ではなく、医者にとっての病人のように治療を必要とする人々として映っていたということなのです。その治療を必要とする病人と一緒に食事をするということが、イエス様の治療法なのです。人は「同じ釜の飯を食う」間がらとなって、その共に同じ食べ物を口にする相手に心を開き信頼感を抱きます。そのように、自分と同じ食べ物を食べてくれる人が自分を最も理解し受け入れてくれる存在として隣にいてくれる。そのことだけで、人は慰められ救われるのです。

 病人とは病気の自覚を持っている人々のことです。その病気との闘いは孤独であり辛いものでしょう。「しかりしろ。頑張れ」と傍から励まされても「頑張れない」から辛いのです。他人の足が踏まれていても百年我慢できる、という諺がありますが、人は自分が病気にならない限り病人の本当の気持ちは分からないものなのです。ただイエス様は人の体を外から見て治療する医者ではなく、病人と同じ苦しみ辛さを味わってくれる、人をその心の内側から治療してくださる医者として私たちの間にやってきて下さった神の御子なのです。

 そして、あの十字架の苦しみと死という、最も孤独で恐るべき滅びの運命を、私たちすべての人間の罪を身代わって負い、その罪の贖いを果たしてくださったのでした。そのようなイエス様であるからこそ、私たちはイエス様に理解されていないどのような孤独も辛さもなく、私たちが苦しみ悩むあらゆる問題も、もはや自分だけの問題ではなくなるのです。

 「手遅れ医者」とい落語では、どんな病気を看ても「手遅れだ。もっと早く来れば間に合ったのに」という医者が出てきます。ある人が屋根から落ちて怪我をしてやってきた時「手遅れだ。もっと早く来ていれば」といわれ「じゃあ、いつ来たら良かったのか」と訊いたところ、その医者が言います。「そりゃあ、屋根から落ちる前だ」と・・・イエス様は病人がやって来るのを待っている医者ではなく、ご自身が真っ先に病の苦しみを共に負い、そのイエス様の苦しみが誰をも癒す愛の力として働くのです。このイエス様の前で手遅れの病も人生もないと言えるのです。
(2015年4月19日週報より)