本当に、この人は正しい人だった

 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。(ルカによる福音書23章46~47節)
                 
 イエス様の十字架の最期を見届けた人の一人に、ローマの百人隊長という立場の人物がいた、と福音書は記しています。彼はローマの役人としてイエス様の十字架刑の指揮を執っていた人物であります。そのような人物が、イエス様の最期の姿を見届けた後「本当に、この人は正しい人だった」と声を発したのです。本来なら、十字架に掛けられる人間はローマ帝国に反逆する過激な政治犯であって、ローマの役人からすれば憐みも同情も一切感じることもなく、その職務としてこのような人間を処刑することにも躊躇することもない相手でありました。しかし、イエス様の十字架の刑に立ち会ったこの百人隊長は、イエス様のその十字架の上の姿とその言葉に激しく心打たれ「本当に、この人は正しい人だった」と声を上げたのでした。

 この百人隊長はイエス様について、どんな人であるのかを前に聞いていたのかも知れません。福音書の物語に、同じローマの百人隊長の立場にある人が、僕の病を癒してもらおうとしてイエス様にお願いをしたというお話が出てきます。この時、イエス様は当時のイスラエル人の多くが異邦人を汚れた存在として接触を避けていた中、ご自身そのローマの百人隊長の家にまで行ってその僕を癒そうとされた、そういう出来事があったのでした。

 もしかすると、その時の百人隊長の知り合いが、イエス様の十字架刑の指揮を執った百人隊長であったということも考えられます。もしそうであったとしたら、ローマの役人でありながらもイエス様に対して「この人は正しい人であった」と言ったこの言葉は決して福音書の著者の創作でも誇張でもない、真実のものであるというリアリティをもったものとして響いてきます。

 この百人隊長は同僚から「イエスという人はこのような方だ」という話を聞いていて、そのイエス様の処刑に偶然立ち会うことになったのだとしたら「どうして、この人を十字架に架けなければならぬのか」という煩悶に悩まされたことでしょう。しかし上からの命令に絶対逆らえない立場の役人として、自分の思いを封印してもそれを行わなければならない、そういう苦しみを背負って処刑の場に臨まざるを得なかった人ではなかったでしょうか。そして、十字架の苦しみの極みにあって、イエス様が「父よ彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と自らのことよりも敵として憎むべき相手のために祈る言葉を聞いた。さらに、自分をこのような運命に遭わせた世間や人や神を呪うことが当たり前の罪人の最期とは全く違う「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」というその言葉を耳にし、百人隊長は「本当に、この人は(自分が聞いていた通りの)正しい人だった」と、自分の立場をも超えて神様を賛美したのではないでしょうか。イエス様の十字架に私たちは、この世の立場の違い、国の違い、民族、人種の隔たりも超えて、ただ人を愛し、赦し、その相手のために祈る真実の「正しい人」の姿を見出すのです。そのイエス様に私たちも百人隊長のように、信仰の眼差しを注いで行きましょう。
(2015年3月29日週報より)