何が正しいのか

 あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。(ルカによる福音書12章57節)
                 
 私たちは「何が正しいか」をある基準をもって測る、そのことは人間が人間として歩むためには欠かせないものです。そして人はその基準を法律に置いて、正しく生きるためには、この世の法や規則に従うことが最善の方法だと考えます。だから、人は物事の善悪を決する場合、裁判でことの正否を決めようとします。しかし、多かれ少なかれ、人は自分の正当性を認めてくれる判決を期待し、同時に自分と争っている相手が間違っていることが証明され断罪されることを求めたがる、そのことも事実でしょう。

 しかしイエス様はある時、このようにおっしゃられたと言います。「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」と。イエス様はまず「正しいか否か」を自らに問うことを教えておられるのです。私たちは自分が正しいと思う場合、また多くの人に自分の方が正しいと認めてもらいたいと願い、そのために相手の方が間違っているという判断を誰もがするような公の判決を望むのですが、それは逆から言うと、誰かを悪人にしなければ自分の正しさが証明出来ない、そのような自己正当化をするために悪者を作るような相対的正しさでしかありません。

 落語に次のような話があります。将棋の好きなお店の主人が、古くからの友人と将棋を指しているうちに「待った」「待たない」というささいな言い争いをし、喧嘩別れをしてしまいます。しかし何日かたつと、将棋をしたくて堪らなくなるのですが、二人とも「あいつが謝ってくるまでは」と互いに意地を張りあい、顔を合わせることも出来ないで時が過ぎました。店の主人はいつ謝ってくるかと店の中で待っていますが、友人は友人で店の主人が謝るのなら行ってやろうと、店の前をウロウロしているのです。そのうち突然雨が降ってきて、友人が慌てていると、店の主人が「雨宿りしていきなさい」と丁稚を介して友人を呼び入れます。次に「店の前で立ってられると商売の邪魔になるから」とさらに主人のいる奥の部屋にまで上がるよう言います。するとそこに将棋盤が用意してあって「雨が上がるまで一局指そうか」「そうしよう」と元通りの仲になる・・そういうお話です。

 この話のように、人は自分にも非があったと思いつつ、なかなか自分から謝ることの出来ない、常に自己正当化を止められない弱さを持っています。その私たちの罪と弱さを背負って、イエス様は十字架に掛かり、贖いの御業を果たしてくださったのです。だから、私たちはその主イエスの十字架の贖いの「愛と赦し」を基準として歩んでいけるのです。たとえ悪化している人間関係の仲でも、祈りをもってあきらめることなく、主に赦された者として相手を赦していける、その信仰者の務めを愛によって成し遂げる者とされていくのです。その和解の務めをとことんあきらめずに続けていくならば、この世界が互い対立し憎しみに憎しみを積み上げていくような状況にあっても、主イエスの愛がその世界の状況をかならず愛によって変えて行く、その信仰の希望をもって私たちはこの世に仕え、この世界のあらゆる局面においても、主の愛を何にも勝る主の「正しさ」と信じ、支えられ導かれるのです。
(2015年3月22日週報より)