生き直せる道

 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(マルコによる福音書14章30節)
                 
 イエス様の十字架の裁判が行われていた大祭司の屋敷の庭で、弟子のペトロが「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」と正体を見抜かれ「そんな人は知らない」と3度否定した、そのお話は4つの福音書を通して伝えられています。イエス様に最初から従っていったペトロは弟子の中でも筆頭格の存在でした。そのペトロが、師であるイエス様に死罪が言い渡されようとしているそのさなか、イエス様を「知らない」と言った、その出来事は人として最も恥ずべき裏切り行為であったことに間違いありません。

 しかしペトロは最初からそのようなことを言うつもりはなかったことも事実なのです。イエス様が弟子たちと最後の晩餐の席に着いていた時、イエス様が「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると羊は散ってしまう』と書いてあるからである。」そう弟子たちに予告した時、ペトロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と断言したのでした。それもペトロの本音であったと思います。イエス様以外に自分が従っていける方はいない、このイエス様のためだったら命を捨てても構わない、そういう意気込みでペトロは答えたのでしょう。しかし、そのペトロが、いざイエス様が捕えられ十字架の刑に処せられようとした時、自分もそのイエス様の仲間として捕えられ殺されるかもしれないという恐れのあまり「そんな人は知らない」と口走ってしまったのです。

 そのことは、ペトロにとって一生涯の痛みとなり、忘れることのできない記憶となっていったことでしょう。そのような最も恥ずべき裏切りをしてしまった人間は、自分自身を決してゆるすことも出来ず、また自分を含め「人間なんて、いざとなったら自分可愛さのあまり親も兄弟も尊敬していた人さえも裏切ってしまうものだ」という、深い人間不信に一生囚われ続けて生きざるを得なくなってしまうのではないでしょうか。ただ、イエス様はそのようなペトロの惨めな姿をはっきりと予告しておられたのです。「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と。このイエス様の言葉こそが、どんなに醜い自己保身に走り、それゆえ人を裏切る惨めな人間をも、すでにイエス様の側で十分知っておられる、そのような人間のためにこそ十字架にかかられるのがイエス様のみこころであった、そのことを示している言葉であったと言えます。

 このイエス様に醜さも弱さも人には言えない惨めな姿をも、すでに見られ知られ聞かれている、その上で「それでも、あなたを見捨てない。愛する」そう言ってくださるのが主イエスという方なのです。私たちもペトロと同様、何度も何度もイエス様を否定し、御言葉に背き、自己保身や裏切りの罪を犯してきたか、振り返るならば絶望せざるを得ないことが数限りなくあるでしょう。しかし、すでにイエス様が十字架によってその罪をすべて背負われた、その主の愛以外に私たちが帰っていける場所はなく、また帰っていくことを主に望まれていない人などないのです。ペトロがその主の愛によって生き直したように私たちも生き直せるのです。
(2015年3月8日週報より)