主イエスの姿を見る

 見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』という時が来るまで、決してわたしを見ることがない。(ルカによる福音書13章25節)
                 
 上記の言葉は、イエス様がガリラヤにおられた時、エルサレムにおいてご自身が十字架に掛かられる運命にあることを知り「エルサレム以外の所で死ぬことはありえない」そう語った後に言われた言葉です。「お前たちの家」というのはエルサレムの都を指し示して言われたものですが、エルサレムは当時、神殿の祭司たちが神の教えである律法や祭儀を行う神殿を権威とし、それらを自分たちの後ろ盾として民衆の上に君臨する、そのような町でありました。しかし、神の教えである律法は、宗教的指導者らの自分たちに都合良い解釈で捻じ曲げられ形骸化していました。一方、貧しい民衆はローマ帝国と神殿から課せられる二重の税金に苦しめられ、富む者や権力を持つ者だけが神様に選ばれ祝福された者のごとく自分たちの立場を誇っていた、そのような状況でした。イエス様はそのような状況の続くエルサレムの都と、そこで思いのままに権力を振るう神殿勢力や権力者たちに向い、こう訴えられます。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽根の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」・・・

 旧約聖書の時代から、幾人もの預言者が現れては、時の支配者・権力者らに真実の神の教えに立ち返り、悔い改めるように説得を続けましたが、エルサレムの現実は変わらなかった、富と権力のみを求め貧しい民衆を食い物にするような不正がやむことはなく、そのためエルサレムの都は滅びの一途をたどっていく他はなかったのです。その過去の歴史が今も繰り返されるエルサレムの現実を嘆きつつ「お前たちの家は見捨てられる」そうイエス様は厳しい言葉を投げかけられたのです。ただ、それは滅びのための滅びを宣告する、救いの無い言葉なのではありません。何度も何度も親鳥が雛を自分の羽根の下に集めるように、神様はその愛を決してあきらめられない、そのしるしとしてイエス様が「エルサレム以外の所で死ぬことはない」そのような方として十字架への道を歩まれたのですから。

 「お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』という時が来るまで、決してわたしを見ることがない」とイエス様は言われました。その一見厳しい拒絶的な言葉も全く救いの可能性を否定するものなのではありません。『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う言葉が人々の口から語られる時がかならず来る、その時こそ、この世界がイエス様の姿を「見る」時なのだ、という希望に裏打ちされた言葉なのです。この世界が金や権力や目に見える力に頼り、他者への愛や思いやりをおろそかにする限り、主イエスの姿は見えません。しかし、どんなに過ちに満ちた人間の罪の歴史が繰り返されても、イエス様が私たちの罪の贖いのために十字架に掛かられた、その絶大な救いの真実を知る者の目には、イエス様の姿がはっきりと映っているのです。その主と共に他者を愛し共に苦労をも担う、その信仰者の歩みこそこの世界に主イエスの愛を反映させるのです。
(2015年2月22日週報より)