何一つ持たないで

 自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。(ルカによる福音書14章33節)
                 
 イエス様は自分に従おうとする弟子たちに「一切のものを捨てて」従うのでなければ「わたしの弟子」ではない、と言われたとあります。この厳しい言葉は、たんに命令として「自分のものをすべて捨ててわたしに従え」という意味で言われたとしたら、ほとんどの人はついていくことなど出来ないでしょう。しかし、イエス様は「捨てよ」と命令形でおっしゃられているのではありません。むしろ「持ち物を一切捨てないならば」と仮定形で言われている、つまり「捨てるか、捨てないかはあなたがたの自由であるが」という含みを込めてこの言葉を語られたのです。

 捨てるということは、それまで自分に必要だと思っていたものを捨てる、そのような重大な決心をしなければならないということでしょう。逆に言えば、その自分の持っているものに執着している限り捨てることが出来ない、それゆえその執着しているものに自分が縛られているという状況が「捨てられない」ということなのです。

 私の友人で、15年近く牧師をしていたけれど、牧師を辞めるという決断をした時、それまで買い集めていた聖書の注解書も神学書も全部捨ててしまったという人がいます。牧師にとって、そのような書物は説教を作る上では聖書と共に必要なものであり、たとえ全部を読まずとも書棚にそれらを並べておくだけでも、いざという時の心強い備えとして持っておくのが普通です。しかしいくら牧師を辞めるからといって全部捨てることはないのではないか、と不思議に思いましたが、彼はそれだけ重大な決断をして、牧師であったころのよすがというものを自分から一切捨てたということなのです。そのように、過去の自分との決別なしに本当に新しい自分の道を歩むことは出来ない、そのような決断をもって0からの出発をしたという彼に、私はうらやましささえ覚えたのでした。私自身は自分が今まで語ってきた説教を記しているノートすら何年分も貯めて残しているような人間なのですから・・・それらを捨ててしまったら、今までの自分の生きてきた証しも何もかも無くなってしまうような気持ちにさせられるからでもあります。

 でも、信仰というものは、過去に自分が何をしたか何を残してきたかによって測れるものではないのだと、友人の決断からも示されたように思うのです。信仰というものは、私たちの努力の積み重ねとか、何かを残してきたという過去の業績に寄りかかって生きることではなく、それらのものを一切捨てて0になっても良い、そこからいつでも新しく出発出来る、そのような希望を持って前進し続けていくことなのではないでしょうか?「ありのままで」という歌が流行っていますが、原題のレッツ・イッツ・ゴーは「~を手放しなさい」という意味合いの言葉だそうです。私たちにとって自分のもの、自分の執着するものを手放しても惜しくない、それがイエス様に従う道、0になっていつでもやりなおすことの出来る信仰の道なのだと言えるのではないでしょうか?何も持たなくても、否、イエス様と共に生きる道のほかに何一つ本当の喜びも生き甲斐も持たない人を、主は喜び導かれるのです。
(2015年2月15日週報より)