イエス様の軛

 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。(マタイによる福音書11章29節)
                 
 ある時、このような話を聞きました。それは私の連れ合いの実家に立ち寄ってそちらのお母さんが話してくれたことなのです。連れ合いのお母さんが通っている美容室で、89歳になる美容師さんが一人で働いているのだそうです。ただその美容師さんは、手の力が弱くなって、しばしば持っている櫛を床に落としてしまう。もちろん落とした櫛は使えないので、それを鏡の前に置いて新しい櫛を出し散髪を続けるのですが、一回の散髪の間に何本もの櫛が鏡の前に並ぶというお話でした。そして、時々「少し疲れたから休んでもいい?」と言って、椅子に座り休憩を取るというのです。その休憩の間はお客さんと世間話をしながら、しばらくするとまたお客さんの頭をあたるため立ち上がる、そのような仕事ぶりなのだと言うことでした。私はこの美容師さんは歳にめげずに働き続ける偉い人だなと思いつつ、その美容師さんに自分の髪の散髪やパーマを任せてずっと通い続ける連れ合いのお母さんも立派だな、と感じたのです。

 この人でなければ、自分の髪のことはわからない、この人にやってもらうのが一番安心できる。そういう長年の間の付き合いで培われた信頼関係がそこにはあります。イエス様は「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と私たちに呼びかけます。軛とは家畜が他の家畜と一緒の重荷を負うために首に架せられる棒であります。そのようなものを負うことは苦痛であり、決して心地よいことではありません。しかし、イエス様がその軛の相方として共に重荷を担って下さる。そういう信頼と安心感があれば、その重荷も自分にとって決して重くはない、喜んで負っていける軽さへと変わるのではないでしょうか?

 もちろんイエス様は私たちよりもはるかに重く、私たちが担いきれない十字架の重荷を私たちのすべての罪の贖いのために負って下さった方です。私たちはそのイエス様の軛を共に負うことが出来るほど強くも立派でもありません。しかし、そのイエス様から「わたしの軛を負いなさい」と声をかけられた者は、そのイエス様とならば一緒にどんな重荷をも負っていきたいと願うようになる、それも本当のことなのです。

 誰が自分の重荷を共に担ってくれているか、そのことを考えた時、自分一人ではとても耐えられそうにない苦しみも痛みも悲しみも「安らぎ」へと変えられていくものなのです。決して自分一人が苦しいわけではない、共に苦しみ悲しみも一緒に味わって下さる相手がいる。そう思うだけでも重い荷物も軽くなるのです。高齢の美容師さんが一回の散髪の間に落とした櫛が鏡の前に何本も並ぶのを見て「ああ、この人はこんなに私のために頑張ってくれているんだ」そう思う人もまた「自分も誰かの人生のために一緒に重荷を担いでいこう」という気持ちを強く持つのです。私たちは何よりもイエス様にすべての罪の重荷を担っていただいた、その喜びのゆえにイエス様と一緒の軛を背負いたいと願う、それが信仰の姿勢なのであります。イエス様が軛の相方として歩まれる。そのことが重荷を喜びとして担う力なのです
(2015年2月8日週報より)