信仰のページに

 ・・・天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものとを取り出す一家の主人に似ている。(マタイによる福音書13章52節)
                 
 子どもの時から日記を書き続けて来たという80代の男性が、エッセイで次のようなことを紹介していました。自分の日記の天気欄の下に1とか2という数字を記すようにし始めたという話でした。それは実は、その男性の奥さんが、その日機嫌が良かったか悪かったかを記録するための数字だということでした。1は夫婦ゲンカした時、2は奥さんが不機嫌であった日、3はマアマア普通、4は上機嫌だった時という風に―。ある日、奥さんから「明日の天気はどうかしら?」と尋ねられ、天気予報も見ないで「明日は晴だよ」と答えたところ、後で天気予報を看たら大雨と出ていて、「あなたって本当にいい加減な人ね」と厳しく咎められたことがあったというのです。それ以来、天気欄の下に数字で奥さんの機嫌の良し悪しを付け始めたのだそうです。ところがその数字を奥さんに見られて「これは何の数字」と訊かれ、その人は慌てて「健康のメモだよ。1は体調不良で4は快調という意味だ」とごまかしたと言うのです。すると今度は奥さんが「ずい分1が多いけど大丈夫?一度医者に診てもらったら」としつこく勧め出したのでさらに困ってしまったと言います。

 しかしそのような日記をつけ続けていくうちに、最近は以前よりも1の数字が少なくなってきたことに気づいたということです。そしてこう思ったと言います。「老いてくると楽しく暮らすために互いに大目に見るようになってきたのだ。叱られるうちが花、叱る方も叱られる方も花なのだ。日記は過去の自分に会いに行くだけではなく、未来の自分との対話でもある。」と。

 私たちの聖書も、過去の言葉の集積なのではありません。その聖書の言葉によって「未来の自分と対話」出来る、そのような書物として読むべきではないでしょうか?そこには過去の自分の罪や過ちを思い起こさせられるような厳しい言葉もあるかもしれません。しかしまた、無力感にうちひしがれた自分が、その言葉によって力づけられ立ち上がって行ける、そのような希望を与えられる瞬間もあるのではないでしょうか。そのような聖書との対話が、私たちの未来の自分への道しるべとなり、来るべき日に自分が主の御前に共に立っているその姿を思い起こせるその未来を確信させるのです。

 「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものとを取り出す一家の主人に似ている」とイエス様は言われます。過去の罪をも、私たちにとって「未来の自分」へと成長していくための途上の出来事として、辛い記憶も、未来に自分が主の前に立てるその時の喜びへと変えられていく布石として打たれたものとして、振り返ることが赦されているのです。古いアルバムの写真を見て「あの時はこんなことがあった、本当に大変だった苦労した」と未来の自分が笑っている、そのような希望をもって私たちは聖書の言葉一つ一々を自分の人生を映し出す写真の様に心におさめ、日々のすべての経験をも、日記を記すように、主の厳しくも愛ある恵みに満ちた教えとして、信仰のページに記していきましょう。
(2015年1月25日週報より)