足を洗われた者として

 もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。(ヨハネによる福音書13章8節)
                 
 私の好きな映画の一つに「ALWAYS三丁目の夕日」という作品があります。その映画の最初の方に、飲み屋の女将に身よりのない子どもを押し付けられた貧乏小説家が、酔っ払った勢いで子どもを家に連れ帰るのですが、朝起きてとんでもないことを引き受けてしまったと後悔する場面が出てきます。そして子どもに向ってこう言います。「いいか、常識で考えろよ。お前と俺とは縁もゆかりもない赤の他人なんだぞ」と。しかし、面子もあって、いやいや子どもの面倒を看続けて行った小説家でしたが、その子が自分の書いている少年冒険小説のファンであることを知り、また自分にだんだん懐いてきたことから気持ちが変わっていくのです。その子がある日、小説家に黙って自分の母親を探しに出て行ってしまうという事件が起こります。子どもがいなくなって慌てた小説家は、さんざん探し回りますが見つかりません。そのうち夜になり、母親と会えずじまいでその子が帰ってきました。その姿を見て駆け寄った小説家が思わずその子の頬を叩いた後、こう言います「常識で考えろよ。お前と俺とは縁もゆかりもない赤の他人なんだぞ」そしてその子を抱きしめる。同じ台詞でありながら、前と後では全くその内容が変わっているのです。「縁もゆかりもない赤の他人」だから自分は面倒も責任も負う義務はない、それがはじめの台詞の意味です。しかし次に同じ台詞を言う時「縁もゆかりもない赤の他人」なのにどうしてこんなに心配をかけさせるのか、という感情がにじみ出るような内容になっているのです。

 私はこの映画のように「縁もゆかりもない」関係が血縁関係以上の絆を持つようになる、それがイエス様と信仰者の間にも通ずるものなのではないかと思います。最後の晩餐の席でイエス様は自ら手ぬぐいを取って弟子たち一人一々の足を洗われた、とヨハネ福音書は記しています。他人の足を洗うのは当時もっとも卑しいとされる身分の人がする仕事でした。弟子のペトロが驚いて「わたしの足など決して洗わないででください」と言うと「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」そうイエス様は答えられたのでした。

 他人の足を洗うことはそれが仕事としてやるならば「こんな縁もゆかりもない相手の足をどうして洗わなければならないのか」といやいやするような仕事でしょう。しかしイエス様は「縁もゆかりもない相手だからこそ、その足をわたしが洗ってその人と深い関わりを持つようにしたい」そういう気持ちで足を洗って下さる方なのです。私たちの足は、この世の人間関係の中で、しばしば相手を踏みつけ、あるいは踏みつけられるような泥にまみれた足になってしまうものです。決して、自らもきれいな美しいものとは言えない、その足をイエス様は「縁もゆかりもなしに」洗って下さるのです。そのイエス様の徹底した愛によって、私たち信仰者は自分の罪も汚れも洗われて、イエス様に血縁関係以上の絆をつないでもらった者とされていくのです。だから私たちもそのイエス様との深い絆を自分が足を洗っていただいた喜びをもって、また他の人々の足を洗う行為を通して示してゆくべきなのです。
(2015年1月18日週報より)