完全な者

 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。(フィリピの信徒への手紙3章15節)
                 
 ある山の上にあるお寺に毎日郵便物を届けていた郵便局員の人が、気づかないうちに自分の心臓がオリンピックのアスリート並みになっていたという話があります。何年も長く急な石段を上り下りしていることで、そのような心臓に鍛えられていたというのです。この人は別にオリンピックを目指して仕事をしていたわけではありません。ただ、自分の届ける郵便物を山の上で待っている人がいる。その人の所へ手紙を届けたい。そういう使命感があってこの郵便局員の人は苦しい山道を登り続けることが出来たのでしょう。

 信仰の道も同様です。その向こうに誰かが待ってくれている、自分が到着するのを喜びをもって迎えてくれる相手がいる。だから、苦しみの日も悲しみの日も、全身を傾け前へ々へと進んで行くことが出来るのです。しかし、信仰にもそれぞれの力量の違いがあります。いつも前向きに生きていけるほど強い信仰の持ち主はそうはいません。私も長い苦しい石段が続くような山道ではすぐにへばってしまうような体力も精神力も無い人間です。でも毎週、礼拝の時が来る。その時のために聖書を開き、メッセージを受け取るために頭を悩まし心を動かすという準備運動をなし続けていかなければなりません。それを30年以上やり続けていると「自分はまだまだだなあ」と思っていても、振り返るならばやはり長い石段を自分も上ってきていたのだと気づかされます。

 自分自身では「まだまだだな」と思っていても、すでにキリストが自分を捕え進むべき道をきっちりと整えて下さっている。もうイエス様がその方向へと進むことを私たち一人一人に望まれ導かれる。そのことを知っているならば、その使命を与えられた者として私たちは不完全な自分をも完全になる未来を約束された者として喜びつつ信仰の道を歩み続けて行けるのです。

 新年早々、暗いニュースが飛び込んで来ました。イスラムの過激派を風刺した内容の記事を書いたパリの新聞社が襲われ、12人もの死亡者が出たというのです。このような事件を起こした人たちは、自分たちこそ神に仕える完全な者だという大義名分を掲げ、自分たちと同じ考えを持たない「不完全」な者たちを滅ぼすことを絶対的な正義とする人たちです。しかし本当にキリストの愛に捕えられた「完全な者」は「別の考え」があることをも「神がそのことをも明らかにしてくださる」こととして容認する人々なのです。自分が決して「今、完全である」などという妄想に囚われない、むしろ自分が今到達している地点に立って、さらに見上げていけるイエス様の待っておられる高見へと腰を上げて向かっていく、それが不完全である自分を認めつつ、なお完全な者となることを望まれた者が歩むべき信仰の道なのです。自分と違う考えを持つ人たちとも共に、それぞれ自分に与えられた道を主イエスの愛の御姿に向かって進み行く人こそ、キリストの愛に捕えられ「完全な者」になることをすでに定められている人なのです。
(2015年1月11日週報より)