ヨセフの信仰

 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。・・・」(マタイによる福音書1章20節)
                 
 マタイ福音書のクリスマスストーリーは、マリアの婚約者であったヨセフの視点を中心に語られています。ヨセフはマリアが妊娠したことを知り、動揺します。なぜなら、まだ結婚もしていない相手の女性がヨセフの知らない間に身重になったというスキャンダラスな問題に直面させられたからであります。ヨセフは「正しい人」であったので、マリアとの間の婚約を解消しようと決心しました。事が公になれば、マリアは姦淫の罪によって死刑に処せられる恐れがあったからです。婚約を解消すれば、シングルマザーとして一人で子どもを産み育てることは出来ます。命までは失わずに済み、お腹の子も無事にこの世に生まれて来られるでしょう。そう考えてヨセフは「ひそかに縁を切ろう」としたのでした。

 しかし、そのヨセフが夢の中で神様の御使いの次のようなお告げを受けます。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と。ヨセフは眠りから覚めると、その夢のお告げ通りにマリアを妻とし、生まれて来るイエス様の父親となったのでした。これは「家族の秘密」の物語でもあります。要するに、ヨセフは血のつながりのない神様の子を自分の実子として受け入れたのでした。それは彼の信仰のゆえだったとしか言いようのない事柄です。マリアと自分だけがそのことを知っている、またそれはイエス様にも打ち明けられない秘密として一生胸の内にしまっておく秘密として守られていったことでしょう。

 日本の諺に「親に似ぬ子は鬼っ子」という言葉があります。この言葉は本来「この子は一体、誰の子なのか」と疑われるような子どもを指して言われた言葉なのではないか、と私は思います。つまり、素性の知れない子どもは鬼から貰った子、鬼が捨てた子を拾ったという風に表現して、それ以上余計な詮索をしないというタブーとして語られてきた諺であったのかもしれません。イエス様はそういう意味では「ヨセフに似ない鬼っ子」であったと言うことも出来るでしょう。しかし、私たちにとって、イエス様は神様の独り子としてこの世に与えられた真実の救い主であることに変わりはありません。むしろ、この世では「鬼っ子」として疑われ、あるいは差別されるような誕生の仕方をされた、それほどまでに人間の世界の冷たい風の吹く立場にイエス様は身を置かれたというのが事実なのです。私たちの社会では、今だ血筋やら家系やら果てはDNAというものにまでこだわって親子であるか否かを問題にする風潮が根強くあります。ただ、そういうことが人と人との格差や、生まれや素性による差別を温存させていることを考えねばなりません。

 ヨセフはイエス様を実子として受け入れ、ダビデの末裔より救い主が誕生するという神様の計画を完成させたのです。ヨセフの信仰が神の子であるイエス様をこの世の救い主として送り出す出発点となったと言えます。もはや、この世の血筋や家系に重要な価値があるのではなく、この主イエスを真の神、真の人となられた救い主として受け入れる、その信仰こそ全ての人を差別偏見から解放する鍵なのです。
(2014年12月14日週報より)