孤独の価値

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書3章16節)
               
 ある大学の先生が、日本で8番目に自殺者の少ないと言われる町の調査をしたそうです。そこで、次のような結果が出たと言います。「その町では赤い羽根募金が集まりにくい」「老人クラブの加入率が低い」-この結果だけを見ると、近所付き合いの無い、自分のことしか考えず人のことには無関心な人ばかりなのかと思ってしまいます。しかし実は、これは「他人と足並みを揃えることに重きを置かず、むしろいろんなタイプの人がいた方が良い」と考える人たちが多いというデーターとして出てきたものなのです。

 もともとこの町は、江戸時代に材木の集散地として発展した所で、そこに職人や商人といった様々な職種の人たちが集まり、それ故それぞれの違い多様性を尊重しなければ共に生きていけない、という気風が根付いたのだと言います。また、この町の人たちにアンケートをしたところ「自分は幸せだ」と思っている人の割合も「自分が不幸せだ」と思っている人の割合も、近隣の町々と較べて一番低いというのです。これも「自分が幸せか不幸せか」ということは、世間の基準や他人との比較で考えるのではなく、自分自身で決めることだという人が多いからなのです。つまり、幸せでも不幸せでもない「普通に生きられる」ことが一番良いと考えている、そういう自分の人生を幸不幸という尺度で測らず、しっかりとした自分自身の尺度で自分の人生を肯定できる人が多いということなのでしょう。

 それは「孤独」であることを肯定することが出来るということでもあります。自分の人生は自分一人でしか生きられない、他の誰とも違って良いのだという「孤独」の価値を知っている、また持っているということです。イエス様も神様の「独り子」として世に現れた方でした。それは神様のみこころを完全に知っていて、そのみこころを果たすことの出来るただ一人の方として「独り子」と呼ばれるのですが、同時にイエス様はすべての人の罪の赦しのために十字架にかかる、その使命を唯一自分のみの運命として肯定し受け入れられた・・その意味でも誰とも違う「独り子」として歩まれたのです。

 このように「孤独」を肯定し自分の人生は自分でしか生きられないことを知っている人は、また他者の孤独をも理解し肯定し、どんな人にも価値があり、永遠の命へと招かれる神様の愛が注がれていることを知る人でもあります。そういう「孤独」の価値をしっかりと身に帯びている人こそ、他者の孤独を慰め、また自分の孤独が他者を生かし励ますために与えられたものであると喜びをもって生きられるのです。竹が強い北風に晒され、大きく揺さぶられても折れず倒れないのは、その竹の節々にある空洞のおかげであると言えます。その竹の一つ一つの節は空洞でありながら、むしろその節と節とが互いに他の節と支え合っています。私たちは「孤独」という空洞を互いの愛のために用いる時、独り子イエス様に連なる、どれ一つとして無くても構わないと言われる存在ではない、むしろ主の愛のために必要とされ、自分自身にしか果たせない独自の役割を果たし得る一人一人となるのです。
(2014年11月23日週報より)