信仰の衣装を着て

 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。(創世記3章21節)
               
 ある方から、まだ誰も袖を通していない真っ新なワイシャツを頂いたことがあります。そのワイシャツの値札を見て驚きました。私が今まで着ていたワイシャツはスーパーで一着1980円也という値段のものばかりだったのですが、そのプレゼントされたワイシャツはウン万という一桁違う値段のものでした。私が驚いて妻にもそのワイシャツを見せたところ「あら、これイブサンローランの品よ」と言ったのです。私はそれを聞いて、今までブランドのワイシャツなど身に着けたことがありませんでしたから、嬉しくなって早速それを着てみたのです。

 「馬子にも衣装」という言葉があります。馬子などという言葉も今時は時代劇くらいでしか聞きませんが、その馬子の着ている着物は袖もなく裾の短い半纏みたいなもので、ほとんど裸同然の恰好です。そういう馬子でもちゃんとした着物を着せれば見栄え良く見える、それが「馬子にも衣装」の意味です。私もブランドのワイシャツを着ればちょっとは見栄えが良くなるのではないか、と期待して鏡の前に立ったのですが「馬子にも衣装」ではなく「衣装が馬子」になってしまったことに気づかされました。イブサンローランも私が来たとたん一着1980円也の市販のものと何の変わりもなく見えてしまったのです。

 しかし、私はそれでもイブサンローランのワイシャツを下さった方の気持ちが本当に嬉しかったのです。たとえ私の貧相で何を着ても見栄えのしないような者にでも「これを着て欲しい」「これを着せてあげたい」と思ってくださった気持ちの方が、そのブランドのワイシャツを貰ったことより何倍も嬉しく感じました。創世記の3章には、神様が罪を犯したアダムとエバを楽園から追放する「失楽園」の物語が記されています。ただ、そのアダムとエバに神様は裸を覆う皮の衣を着させられた、とあります。それは親が自分の子どもが遠くへと旅立つ時に、出来る限りのものを与えたい、着る物も社会に出ても恥ずかしくないちゃんとしたものを着せてやりたい、そういう切ないほどの愛によって送り出す神様の姿に思えます。

 「キリストを着る」という言葉が聖書には出てきますが、神様はたとえ「キリストを着る」資格など無いように思える罪だらけで過ちを犯し続ける私たち一人一々にも、ちゃんとした着物としてキリストを「着て欲しい」「着せてあげたい」とイエス様をこの世界へとプレゼントしてくださったのです。神様の独り子が、私たち罪人に過ぎない人間の世界に、ご自身小さな赤ん坊の姿をとって、貧しい飼い葉桶の中に布にくるまれ誕生されたのです。

 アダムとエバに着せられた皮の衣が儚い命をも守るための神様の愛であったのに対し、今や私たちはイエス様の十字架の贖いと復活の出来事を通し、罪赦され永遠の命に生きる者として、そのキリストの衣装を信仰の旅の衣装として着させていただいています。だから私たちは、イエス様を着るに相応しい者として、「キリストを着て欲しい」と願う神様の愛に感謝しつつ、来るべきクリスマスの時をすべての人の喜びの日とすべく、一人でも多くの人に主の愛の衣装を贈り続けましょう。
(2014年11月16日週報より)