クリスマスの光(2)

 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マルコによる福音書15章34節)
                 
 今年もアドヴェントの季節を迎えました。クリスマスを待ち遠しく思う、また町々にもさまざまなイルミネーションの光が灯される、心沸き立つ季節でもあります。山々は美しい紅葉に彩られて、人々の目を楽しませるのも、この時期ならではのことです。このような美しく、楽しいイメージの先行するクリスマスシーズンですが、イエス様のお生まれになった時代は決して人々が心楽しく喜び祝う、そのような時代ではありませんでした。イスラエルはローマ帝国の支配下に置かれ、民族独立を願う人々はしばしば武装蜂起してローマに立ち向かい、しかしことごとく鎮圧され多くの命が犠牲となっていました。ユダヤ教の祭司たちは、律法の掟を権威として、民衆の生活のこまごまとした行動にもブレーキをかける、慰めもゆるしもない教条主義に陥っていたのです。税金はローマからもユダヤ教の側からも搾り取られ、貧しい人たちはますます貧しくさせられていた時代です。

 そのような中、イエス様は貧しい大工のヨセフとマリアの間の初めての子としてお生まれになりました。しかし、その誕生の時からイエス様の生涯は十字架への道として定められていたのです。マタイによる福音書では、イエス様の誕生を「ユダヤに新しい王」が生まれた出来事だと思い訪れた東方の占星術の学者たちは、贈り物の一つに死者の体に塗る時使われる「没薬」を贈ったと記されています。また、ルカによる福音書は、預言者シメオンの言葉を通して、イエス様は「反対を受けるしるしとして定められている」子として生まれたことを記しました。

 イエス様はその誕生の瞬間から、飼葉桶に寝かされる、人の居場所からはみだされた子であり、また権力者ヘロデが自分の王座を固守するため、イエス様の誕生したベツレヘムの町の2歳以下の幼子をみんな殺してしまうという、それほど歓迎されざる子という身でこの世に生を享けたのです。そして、その生涯の最後には「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばざるを得ない苦しみの中、十字架での死を遂げられたのでした。

 このようなイエス様の一生は始まりからその終わりまで不幸の影に覆われる人生であったと言わざるを得ません。しかし、イエス様はその不幸の影の覆う人生をむしろご自身の命を光として照らしだすための、いわば光を際立たせるための暗さとして生きられた方でもありました。今もこの世界は不幸の影に覆われるような暗さが個人をも国家をも支配し、互いにその不幸の責任を擦り付け合うような憎悪と憎悪の対立と連鎖が続く時代ではないでしょうか。そのような中で、イエス様はなお私たち罪のゆえに憎み合う人と人、国と国の只中に立って、執り成しの祈りを続けておられるのです。不幸のどん底の闇の中で「なぜ神はお見捨てになったのか」と叫ぶ人々の側に寄り添い「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と共に痛み悲しみを負って叫んでいてくださるのです。クリスマスの喜びの光は、このような深い闇、不幸の影に覆い尽くされる世界に、しかし決して失われない光となってイエス様が共に生き共に祈り共に叫んでくださる、その主と共にある喜びに輝くのです。
(2014年11月30日週報より)